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第132話 惟成の懸念

雉団子粥を食べ終え、紗世が陰陽頭から六条邸へ戻るための段取りを聞き終えた頃だった。


「……なるほど。」


紗世はゆっくりと息をついた。


「つまり、“三条”という名に、すべての功績や不思議な力を集めるのですね。」


そう言って、静かに言葉を続ける。


「私が和泉国へ戻ったあと、“三条”は姿を消す。

そうすれば――」


紗世は小さく頷いた。


「“和泉”にしろ“三条”にしろ、不思議な力を持つ女房は、都からいなくなる……ということですね。」


「そうだ。」


陰陽頭は穏やかに頷いた。


「もともと“三条”という女房は存在しない。

和泉国へ行ってその名を探したところで、見つかるはずもない。」


その言葉に、紗世の表情が少しだけ和らいだ。


だが――


「和泉殿。」


静かな声が、その空気を切った。


惟成だった。


「ひとつ、気がかりがございます。」


紗世が顔を上げる。


惟成は感情の見えない顔のまま、まっすぐ前を見ていた。


「和泉殿――

いや、三条殿が和泉国へ帰る途中」


一度だけ息を置き、低く続ける。


「何者かに襲われる、あるいは攫われる可能性が高いかと。」


「……っ」


紗世の指先が、膝の上で小さく震えた。


御簾の内から、鋭い声が落ちる。


「それは……どういうことです?」


六条御息所の声だった。


惟成は静かに答えた。


「古寺に、妙な男がおりました。」


「妙な男?」


源氏の君が眉をひそめる。


「最後に病人として入った男です。

和泉殿――

あの男に違和感はありませんでしたか?」


紗世は、はっと息を呑んだ。


「あの人……

最初から熱なんてありませんでした。」


思い出すように、小さく呟く。


「病人っていう感じが、しなかった……。」


「ええ。」


真砂も頷いた。


「熱は下がったが、呪詛が恐ろしい。ここにいれば祓えるのだろう、と申して今も居座っております。」


惟成が続ける。


「病人のわりに、寝ていなかった。

寺の中を歩き回り、あちこちを見ていた。

そして――」



惟成の目が、わずかに冷えた。


「三条殿のことばかり、探っていた。」


部屋の空気が、静かに張り詰める。


「何を聞かれたのだ。」


頭中将が低く問う。


「三条はどこの女房か。

いつから仕えているのか。

地方の者ならどこから来たのか。」


そこで惟成は、一瞬だけ紗世を見た。


「そして――

呪詛を祓う物を作ったのは、本当に三条殿なのか、と。」


誰もすぐには口を開かなかった。


その沈黙の中で、陰陽頭が小さく目を細める。


「三条を利用したい者が動き出している……ということか。」


「恐らくは。」


惟成は短く答えた。


陰陽頭は扇の先で静かに床を叩いた。


トン……


「確かに」


トン……


「二年前、和泉殿は都で噂が立ち、高位貴族達が動き出す前に里へ下がった。」


トン……


「今度こそ手に入れたい、と考える者がいても不思議ではない。」


「しかも」


惟成が静かに続ける。


「古寺にいる間は、中務卿宮の庇護がある。

武官である私がいることも、相手は知っていたはずです。

だから、寺の中では動けなかった。」


「だが」


源氏の君が低く言った。


「和泉国へ帰る道中なら――」


頭中将がその先を継いだ。


「三条を得るには、そこが唯一の好機と思うだろうな。」


紗世は、無意識に自分の袖を握りしめた。


戻れるかもしれない。


そう思ったばかりだったのに。


その帰り道が、最も危ういかもしれない。


その現実に、胸の奥がひやりと冷えた。


部屋には、重い沈黙が落ちた。


トン……


トン……


陰陽頭の扇だけが、静かに床を打つ。


誰も、次の言葉を急がなかった。


やがて陰陽頭は、ゆっくりと顔を上げた。


口元だけに、薄く笑みが浮かぶ。


「──ならば」


扇が鋭く鳴った。


パシン。


「その好機とやら、こちらが先に使わせてもらおう。」


その一言に、部屋の空気が再び変わった。



「まず、和泉国への道中だが──真砂殿。」


陰陽頭は静かに真砂へ目を向けた。


「真砂殿には、和泉殿より一足先に和泉国へ戻っていただきたい。」


「え……?」


真砂の顔が強張った。


「わ、私は姫君付きの女房にございます。

姫君を置いて先に帰るなど──」


「それは、よく分かっている。」


陰陽頭は穏やかな口調のまま言った。


「だが、襲われる恐れのある道中で、二人を同時に守るのは難しくなる。」


真砂は息を呑んだ。


「一人ずつ別に動いた方が、より確実に守ることができるのだよ。」


そして陰陽頭の目が、わずかに鋭さを帯びた。


「それに──

相手の狙いが和泉殿だけであったとしても、傍にいる者がいれば、口封じのためにその者まで狙われかねない。」


その言葉に、紗世の肩が大きく震えた。


「真砂まで……?」


か細い声が漏れた。


「そんなの……だめ……。」


紗世は思わず真砂の袖を掴んだ。


「真砂まで危ない目に遭うなんて、そんなの絶対いや……。」


「姫君……」


真砂は紗世を見つめ、苦しそうに眉を寄せた。


「ですが……

姫君だけを危険の中へ置いていくなど……」


「お願い。」


紗世は真砂の袖を握ったまま、真っ直ぐに見上げた。


「私のために……陰陽頭様の言う通りにして。」


真砂はしばらく黙ったまま、紗世の手元を見つめていた。


やがて静かに目を伏せる。


「……承知いたしました。」


絞り出すようにそう言って、深く頭を下げた。


「私は一足先に和泉国へ戻り、姫君をお迎えする支度を整えておきます。」


「うむ。」


源氏の君が静かに頷いた。


「安心しなさい。真砂殿の道中にも、こちらで信頼のおける者を付けよう。」


「ありがとう存じます。」


真砂は再び深く頭を下げた。


そして紗世へ向き直り、小さな声で囁いた。


「どうか……ご無事で。」


紗世は黙って頷いた。


部屋の中に、重い静けさが落ちる。


その静寂の中、陰陽頭が扇で膝を軽く打った。


「で、和泉殿──いや、三条殿の道中だが。」


その声に、皆の視線が陰陽頭へ向いた。


「護衛は惟成殿──」


そこまで言って、陰陽頭はふっと口元だけで笑った。


「……と、言いたいところだけど。」


惟成がわずかに眉を動かした。


「今回、惟成殿には──」


陰陽頭はゆっくりと惟成を見た。


「鬼になってもらおうかな。」


その一言で、部屋の空気がぴんと張り詰めた。


真砂が息を呑み、紗世は不安そうに惟成を見た。


だが惟成だけは、表情ひとつ変えずに陰陽頭を見返した。


「……承知しました。」


低く落ちたその声だけが、静かな部屋に残った。


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