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第131話 上京の段取り

「和泉殿を六条邸へ再び迎えるために――

“三条”を利用しようかと。」


陰陽頭の眼差しが、すっと鋭さを帯びた。


「“三条”とは、宇治で和泉殿が用いていた名であろう?それを利用するとは、どういうことだ?」


頭中将が眉を寄せる。


「ええ。その名を――和泉殿から切り離して扱うのです。」


「切り離す?」


源氏の君が低く問う。


「世において、“三条”を和泉殿とは別の存在として認識させる。それが今回の肝要でございます。」


場の空気がわずかに張り詰めた。


「まず考えていただきたい。和泉殿はなぜ都を離れたのか。」


「呪詛を弾く力を持つと噂され、政に利用されかねぬと危ぶまれたためだ。」


源氏の君が答える。


「そう。和泉殿は“特別な力を持つ者”として認識された。」


陰陽頭はゆっくりと言葉を重ねた。


「ゆえに、今再び都へ戻れば――

その噂は必ず蘇る。」


御簾の内から、御息所の声が静かに落ちる。


「……紗世が紗世である限り、戻ることは難しい……。」


「その通りでございます。」


陰陽頭は頷いた。


「しかし今回、宇治では“別の名”が広く知られるようになった。」


「三条、か。」


頭中将が腕を組む。


「ええ。

石鹸、甘露水、湯殿――

形あるものを残し、病を祓った女房。」


「和泉殿以上に、印象は強いだろうな。」


「はい。」


陰陽頭はわずかに笑みを浮かべた。


「ならば、その“名”を前に出すのです。」


「前に出す……?」


「三条は祓うのみならず、呪詛を弾き、返し、結界すら通じぬ――

そうした噂を流す。」


「ほう……。」


頭中将が興味深げに身を乗り出す。


「そして、最も重要なのは――」


一拍。


「その力を、人に一時的に授けることができる、とすることです。」


空気が、ぴんと張り詰めた。


「……なるほど。」


小さく呟いたのは惟成だった。


「二年前の和泉殿は、“三条”からその力を授かっていた――

そういう筋書きにするのですね。」


「さすが惟成殿。察しが早い。」


陰陽頭は満足げに頷く。


「そして今はその力も消え、ただの女房に戻った――と。」


「つまり」


頭中将がゆっくりと口を開いた。


「“三条”という名に、すべての噂を引き受けさせる……。」


「ええ。」


陰陽頭の声は静かに響く。


「和泉殿そのものではなく、“三条”という名が独り歩きするよう仕向けるのです。」


「そうなれば」


源氏の君が目を細めた。


「世は“三条”を追い、和泉殿には手を出さぬ……」


「その通りでございます。」


陰陽頭は穏やかに微笑んだ。


「そもそも存在せぬ“三条”は、捕らえられぬ存在となる。そして関心もまた、次第に薄れていくでしょう。」


静かな沈黙が落ちる。


やがて、頭中将が小さく頷いた。


「……面白い。」


源氏の君も、わずかに口元を緩めた。


「ここには、世に影響力を持つ者が二人もいる。」


陰陽頭は源氏の君と頭中将、二人を見やる。


「噂など、三日もあれば都に満ちましょう。」


視線が交わる。


「ならば――」


「動くか。」


二人は同時に、薄く笑った。


「ただし」


陰陽頭は静かに続ける。


「噂が広まった後、都の貴族たちがどう動くかを見極める必要があります。」


そう言って、御簾の方へ目を向けた。


「ですが――年明けには」


一拍。


「和泉殿を再び、この六条邸へ迎えられるだけの空気は整えられるかと。」


御簾の内、六条御息所は静かに目を閉じた。



紗世を六条邸へ戻す段取りの話がひと段落した頃だった。


「ねえ、和泉。本当に大丈夫なの?」


「大丈夫ですってば、右近殿。

台盤所の鍋に少し粥が残っていますから、良かったら後で食べてみてください」


廊下の向こうから、そんなやり取りと衣擦れの音が近づいてきた。


「お待たせしました!」


紗世の明るい声とともに、真砂、右近、そして数人の女房たちが、湯気の立つ器を載せた膳を運んで部屋へ入ってくる。


(右近殿たちの顔が青いのは……

やはり調理の様子を見たからか)


源氏の君と頭中将は、女房たちの微妙な表情に、先ほどまで薄れていた不安を思い出した。


やがて、それぞれの前に膳が置かれる。


そこにあったのは、白い湯気を立てる粥。


やわらかな雉の団子と、青い葱が静かに浮かんでいた。


「……ほう」


頭中将が器を覗き込む。


「見た目は……実に美味そうだ。」


「どうぞ。召し上がってください。」


紗世がにこりと笑った。


惟成、真砂、陰陽頭は、何の迷いもなく匙を口へ運ぶ。


その途端――


「あぁ……うまい……!」


陰陽頭は思わず天井を仰いだ。


「なんということだ……

このように味の深い粥は食べたことがない。

これを知ってしまえば、もう今までの粥には戻れぬな。」


惟成も、真砂も、静かに頷いている。


「そ、そこまでか……」


源氏の君と頭中将も、ようやく匙を手に取った。


御簾の内の御息所もまた、静かに器を持ち上げる。


ひとくち――


その瞬間、三人の動きが同時に止まった。


「……これは」


源氏の君が息を呑む。


「なんだ、これは……!」


頭中将が思わず声を上げた。


「美味い……!」


「なんとも繊細で……それでいて深い味だ。

雉というものは、ここまで柔らかくなるのか……。」


源氏の君も、驚きを隠せず器を見つめる。


御息所は口元に手を添え、静かに目を細めた。


「……私も、これほど美味なる料理は宮中でもいただいたことがないわ。」


(ふふ……

みんな毎回、良い反応してくれるなあ。)


紗世は胸の内で小さく笑った。


「紗世」


御簾の内から、静かな声が落ちる。


「は、はい。」


「この料理、とても見事です。」


御息所は穏やかに言った。


「この料理は……紗世にしか作れないのかしら。」


「いえ。」


紗世は慌てて首を振った。


「材料があれば、私でなくても作れます。作り方を書いて、後で台盤所の方へ渡しておきます。」


そう答えたあと、紗世の表情が少しだけ曇った。


「……私がいなくても、この邸で召し上がれるようにしておきますので……。」


今日が終われば、また和泉国へ帰らねばならない。


そのことを思うだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


「和泉殿。」


陰陽頭が明るく声をかけた。


「ちょうど、その話をしていたのだよ。」


「……その話?」


紗世が顔を上げる。


「年が明ける頃には、和泉殿が再びこの六条邸へ戻れるよう、段取りを整えよう――という話さ。」


「え……?」


紗世は目を見開いた。


「私……ここへ戻ってこられるのですか?」


「ああ。」


陰陽頭は静かに頷く。


「その前に、都に少々手を打たねばならぬがね。」


紗世はしばらく言葉を失った。


もう一度この邸へ戻れるなど、夢にも思っていなかった。


「……本当に?」


かすれた声でそう呟くと、陰陽頭は笑った。


「だから今から、その話を聞いてもらおうと思ってね。」


紗世は膝の上で手を握りしめながら、静かに頷いた。

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