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第130話 懐かしき六条邸

───数日後・六条御息所邸


その日、六条邸は朝からどこか浮き立つような空気に包まれていた。


和泉が帰ってくる――


たとえほんのひと時であっても、あの少女が再びこの邸へ姿を見せる。


その知らせだけで、女房たちも雑色たちも、朝から落ち着かずに行き交っていた。


「紗世の好きだった菓子は、もう用意できたかしら。」


「持たせる土産は、そこへ揃えておいて。」


いつもは静かに物を言う六条御息所でさえ、その日ばかりは幾度も声をかけていた。


(数日前、陰陽頭様が……

今、紗世が宇治にいると教えてくださって……

しかも、お忍びでここへ連れて来てくださると――)


思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。


ふと、紗世の笑顔が脳裏に浮かび、御息所の唇にかすかな笑みが宿った。


そこへ女房が静かに膝を進めた。


「御息所様。

源氏の君、頭中将様、陰陽頭様、源惟成様がお越しにございます。」


「お通しして。」


やがて、衣擦れの音とともに、男たちが御簾の外に控えた。


源氏の君も頭中将も、前日に和泉が訪ねて来ると聞き、ぜひ会いたいと自ら申し出ていたのだった。


御息所は御簾の内から、静かにその気配を感じていた。


(まるで……

紗世がいた頃の六条邸に戻ったよう……。)


懐かしい賑わいに、御息所はそっと目を細めた。


それから半刻ほどして、再び取次ぎの女房が現れた。


「和泉守の姫君、ならびにその女房、ただ今到着にございます。」


門前から、人々のざわめきが次第に近づいてくる。


「和泉殿がこちらへ向かっているのが、気配だけで分かりますね。」


陰陽頭が穏やかに笑った。


「御息所様だけでなく、この邸の者みなが和泉殿を待っていたのだろう。」


源氏の君も柔らかく言った。


「我らまで揃っているのだからな。」


頭中将も苦笑した。


御簾の内で、御息所は静かに目を潤ませる。


(紗世……

皆、あなたを待っていたのですよ……。)


やがて、先導の女房に続き、紗世と真砂が部屋へ入ってきた。


紗世は御息所の前に静かに座し、深々と頭を下げた。


「六条御息所様。

お久しぶりにございます。

御息所様におかれましては――」


「紗世」


御息所の声が、

静かにその言葉を止めた。


「こちらへ。御簾の内へお入りなさい。」


紗世は目を見開き、小さく頷くと、そっと御簾の内へ入った。


「顔を見せてちょうだい。」


御息所はそう言って、紗世の頬にそっと手を添えた。


懐かしい温もりに触れた瞬間、紗世の瞳から涙がこぼれた。


「お久しゅうございます……。

御息所様……

お会いしとうございました……。」


「ええ。

少し見ぬ間に、顔つきまで大人びましたね。」


「御息所様の気品に比べたら、まだまだです……。

私の目標は、ずっと御息所様ですから……。」


その時。


御簾の外から、わざとらしい咳払いが響いた。


「御息所様。

我らも和泉殿との再会を喜びたいのですが。」


源氏の君が、どこか拗ねたように言う。


御息所と紗世は顔を見合わせ、思わずくすりと笑った。


「ごめんなさいね。

紗世、皆様にもご挨拶なさい。」


「はい!」


紗世が思わず御簾に手をかけた、その瞬間。


すっと御簾の隙間から伸びた手が、その手首をそっと押さえた。


「だから言っただろう。軽々しく御簾をあげようとするな。」


惟成だった。


「御息所様のお姿を、そう簡単に見せるものではない。」


「……ちょっとくらい、いいじゃない。」


「よくない。」


変わらない二人のやり取りに、その場の空気がふっと和らぎ、御簾の外から笑いが漏れた。


────


しばらくして、紗世が持参した品々が広げられた。


「ほう……これが、せっけん。

そしてこちらが、例の病に効く飲み物か。」


頭中将が興味深そうに石鹸と薄めた甘酒の器を見つめた。


「そういえば和泉殿。

石鹸はともかく、その飲み物には名はないのかい?」


陰陽頭が尋ねる。


「病を払う水、では少し味気ないだろう。」


「うーん……

それ、私も考えてたんです。」


紗世は少し困ったように笑った。


「これは何でできているのだ?」


源氏の君が尋ねる。


「薄めた甘酒に、ほんの少し塩を加えただけです。」


「……それだけか?」


「それだけです。」


男たちが揃って首を傾げる中、静かに口を開いた者がいた。


「――甘露水、などどうでしょう。」


珍しく、惟成だった。


「甘露水?」


紗世が目を瞬かせる。


「宇治で倒れた折、熱で朦朧とした中であれを口にしました。」


惟成は静かに続けた。


「雪で冷やされていたそれが、火照った身体に甘く沁みました。経にある甘露とは、こういうものかと思いましたので。」


紗世は小さく目を見開いた。


自分では思いつかないほど、綺麗な名だった。


「えっ、惟成くん。兵法書以外の書物も読むんだ?」


陰陽頭が面白そうに笑う。


「陰陽頭様が、私をどう見ていたのかよく分かりました。」


惟成は淡々と返した。


そのやり取りに、また笑いが起きた。


「良いではないか。

甘露水――実に雅だ。」


頭中将が頷く。


「これなら都でも広まりやすいだろう。」


こうして、紗世が作ったその飲み物は、「甘露水」と呼ばれることになった。


「石鹸に甘露水か。

和泉殿は本当に面白い子だ。」


源氏の君は楽しげに微笑んだ。


すると陰陽頭が、さらりと言った。


「あと、湯殿も作っておりますよ。」


御息所も、源氏の君も、頭中将も揃って顔を上げた。


「……湯殿?」


「人がそのまま湯に浸かり、身を清められるものです。身体の芯まで温まります。」


「なんだそれは!どこに行けば入れるのだ!」


頭中将が身を乗り出す。


「宇治の古寺にございます。

中務卿宮様のご協力あってこそですが。」


陰陽頭が笑う。


「私も使いましたが、実に快適でしたよ。

脱衣する場、身を清める場、そして湯に浸かる場がそれぞれ分けられておりました。」


源氏の君が驚いて惟成を見た。


「惟成、お前も入ったのか?」


「ええ。」


惟成は静かに答えた。


「首まで湯に浸かると、張り詰めていた身体が

ほどけるようでした。」


紗世はその横顔を見つめ、小さく笑った。


宇治での出来事を語る声が重なり、六条邸には久しぶりに穏やかな笑い声が満ちていた。


「しかし、一番驚いたのは、和泉殿のお料理ですな。」


ぱちり、と陰陽頭が扇を鳴らした。


「料理?」

「和泉殿の?」


源氏の君と頭中将が、揃って目を見開く。


御簾の内から、六条御息所の静かな声が落ちた。


「紗世……あなた、料理ができるのですか?」


「ええと……はい……。

最初は、病の方に少しでも滋養がつけばと思って作ってみたのですが……」


そう答えながら、紗世はわずかに頬を染めた。


(病人っていうより……惟成のため、だったんだけど……。)


「いやいやいや!和泉殿。あれを病人食などと言ってしまうのは惜しい。」


陰陽頭はうっとりした顔で続けた。


「宮中に出されても不思議ではないほど、見事なお味でしたよ。」


「そこまでか……」


源氏の君が興味深そうに身を乗り出す。


「どのような料理なのだ?」


頭中将も目を輝かせた。


「その……料理が好評だったので、今日、皆様にも召し上がっていただけたらと思って……下拵えをして持って参りました。」


その言葉に、部屋の空気が目に見えて明るくなった。


「あの“おやこどん”とやらかい?」


陰陽頭が尋ねる。


「親子丼は一つずつ仕上げるので時間がかかってしまいますから、今日は一度にたくさん作れる雉団子粥の支度をしてきました。」


「ほう……粥か。」


陰陽頭が少し拍子抜けした声を出す。


「ここへ参る前に、台盤所へ材料だけ置いてきましたので、今から仕上げてまいります。」


「紗世、あなたが自分で?」


御息所の声に、かすかな驚きが混じった。


「台盤所の者に申しつければ、してくれるでしょうに。」


紗世が返答に迷うと、真砂が静かに口を開いた。


「恐れながら申し上げます、御息所様。

料理は当家の姫君ご自身がなさるのがよろしいかと。」


「それは、どうして?」


御息所が問い返す。


「使われる食材や手順が、その……少々、常とは異なりますので、こちらの料理人の方々ではかえって戸惑われるかもしれませぬ。」


「食材が……?」

「常とは違う……?」


源氏の君と頭中将が顔を見合わせた。


真砂は真面目な顔で続けた。


「ですが、お味はこの真砂が保証いたします。

姫君のお料理は、まことに見事なものでございます。」


「私も保証いたします。」


惟成も短く言った。


「私も一度しかいただいておりませんが、保証いたしますよ。」


陰陽頭まで穏やかに微笑む。


御簾の内で、御息所は小さく息をついた。


「あなた方がそこまで言うのなら……紗世、お願いできるかしら。」


「はい。真砂、手伝って。」


「はい、姫君。」


そう言って、紗世と真砂は部屋を下がっていった。


その後ろ姿を見送りながら、頭中将が惟成に顔を向けた。


「先ほど、常とは違う食材と言っていたが……惟成は知っているのか?」


「はい。」


「何を使うのだ?」


惟成は少しだけ考え、淡々と答えた。


「……雉の骨、でしょうか。」


「――は?」


頭中将の手から、扇がぽとりと落ちた。


惟成は構わず続ける。


「それから、石臼で挽いた米の粉。」


「……米の粉?」


今度は源氏の君の手からも、扇が落ちる。


「さらに、形が分からなくなるほど叩いた雉肉。」


御簾の内で、御息所の手の中の扇が、かすかに傾いた。


「そ……それは……本当に料理になるのか……?」


源氏の君が恐る恐る問う。


その瞬間。


「ははははは!」


陰陽頭が声を上げて笑った。


「私も最初は、まったく同じ顔をしましたよ。」


「だが本当に美味いのか?」


頭中将が半信半疑で聞く。


「ええ。私がいただいたのは“おやこどん”なる別の料理でしたが、今まで食べたこともない味でした。」


ちょうどその時、遠く離れた台盤所の方から声が響いた。


「和泉殿ーーっ!」


「な、何をなさっているのですか!?」


「それを、そこへ入れるのですか!?」


料理人たちの悲鳴にも似た声が、邸の奥から聞こえてくる。


その騒ぎを背に、陰陽頭はふっと真顔になった。


「和泉殿たちが戻るまでに――」


その場の空気が、静かに変わる。


「再びあの子をこの六条邸へ迎えられる道を、

少し考えてみようかと思いましてね。」


その一言に、源氏の君も、頭中将も、惟成も、それぞれの表情を静かに引き締めた。

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