第129話 変わらぬ想い
「ああ、美味かった。」
「本当に。今回も美味しゅうございましたわ、三条。」
「はぁ……和泉国へ帰るという話をした直後にこの食事か……罪作りだね、三条殿。」
陰陽頭がため息まじりに言った。
その言葉に、鷹丸の胸が小さく痛んだ。
「しかし、この噂の広まり方では、なるべく早めに――」
惟成がそこまで言いかけた時だった。
ふと、その視線が廊下の方へ止まった。
次の瞬間、惟成は無言で立ち上がり、そのまま廊下へ飛び出した。
「惟成殿?」
陰陽頭が眉を寄せる。
惟成は廊下へ出ると、周囲を鋭く見渡した。
冬の冷たい空気だけが、静かに流れている。
「……誰かいたか?」
鷹丸が低く問う。
惟成はしばらく庭先を見据えたまま、ゆっくりと振り返った。
「……いえ。誰かいたような気配がしました。」
「見間違いか?」
「今は、もう姿を隠したようですが……」
そう言って、惟成は静かに目を細めた。
「この話は、一度ここまでにした方が良いかもしれません。三条殿が今後どこにいるかということは、公にはしない方が良いでしょう。」
その場の空気が、一気に張り詰めた。
張り詰めた空気を解くように、古寺の僧がやって来て鷹丸に向いた。
「鷹丸様。都より使いの者が来ております。急ぎ別邸へとお戻りください。との事です。」
「……わかった。」
短く返事し、立ち上がった。
「それでは三条殿達が下る日については、また話そう。先に失礼する。」
そう言い、鷹丸はチラリと紗世へ視線を向け、僧の後へ続いた。
────古寺・僧坊奥の間の柱の影
(……危なかった。)
男は柱の陰に身を潜めたまま、浅く息を吐いた。
最後にこの寺へ病人として運び込まれた男だった。
この数日、石鹸や例の飲み物だけではなく、それを作る“三条”という女房の様子を、密かに探っていた。
(やはり――)
男は奥の間を振り返る。
(ここでの要は、三条という女房だ。)
気配を殺しながら、少しずつその場を離れていく。
(和泉国へ帰す、と言っていたな……)
男の目が細くなる。
(帰られてしまえば厄介だ。上の方々は、あの女を何としてでも手元に置きたいと仰っていた……)
一人、何食わぬ顔で療養部屋へ戻る。
(中務卿宮の別邸に身を寄せ、陰陽頭とも繋がり、さらにあの武芸の天才と噂される武官まで側にいる……)
筆と紙を取り出し、男は素早く文を書きつけた。
(ここから連れ出すのは難しい……)
そこで、筆先がわずかに止まる。
(だが――
和泉国へ戻る道中なら。)
男の口元が、わずかに歪んだ。
(早く、手を打つべきだと報せねば。)
書き終えた文を小さく折り畳み、懐へ押し込む。
そして男は、誰にも気付かれぬよう静かに寺の門の外へ消えていった。
───僧坊の一角
陰陽頭は、鷹丸が門前で牛車に乗る様子を見届けると、静かに紗世たちの方へ向き直った。
「名残惜しいが、三条殿と真砂殿は帰らねばならぬからね。」
紗世は俯いたまま、小さく唇を噛んだ。
「……帰る前に、六条御息所様のもとへ、一度顔を見せに行ってはどうかな。」
陰陽頭は穏やかに微笑んだ。
「え……」
紗世ははっと顔を上げた。
「御息所様も、この二年、やはり気落ちなさっておられるようでね。ほんのひと時でも、君の元気な姿をお見せできればと思ったのだよ。」
「御息所様に……お会いできるのですか……?」
嬉しさに、紗世の声はかすかに震えた。
「鷹丸殿にも、懐かしい女房仲間に一度会いたいと申せば、無下にはなさらぬだろう。」
「あ……会いたいです。御息所様に……六条邸の皆に。」
「では、こちらで段取りを整えておこう。」
「はい……!お願いいたします。」
紗世は深く頭を下げた。
「よろしゅうございましたね。」
真砂はそっと紗世の肩に手を添えた。
「うん……。あ、真砂も……真砂も一緒に行っては駄目ですか?」
「その日は三条殿ではなく、和泉殿として参るのだ。和泉守の姫君に仕える女房としてなら、差し支えあるまい。」
「え……わ、私まで……?
六条御息所様のような尊いお方のお邸へ上がるなど、恐れ多うございます……。」
真砂は戸惑いながらも、結局は紗世と共に行くことになった。
───夜・中務卿宮別邸
紗世は鷹丸に呼ばれ、ひとりその部屋を訪れていた。
「結局、和泉国へ帰ることになってしまったな……。」
鷹丸は、どこか寂しげに口を開いた。
「もとより、そのつもりでございましたから……。」
紗世もまた、静かに答えた。
「季節の折には、文や贈り物を届けさせよう。」
「いいえ、そのような……恐れ多いことでございます。」
紗世が顔を上げると、鷹丸は一歩近づき、そっとその手に触れた。
「贈りたいのだ。拒まないでくれ。」
低く落ち着いた声に、紗世の胸が高鳴る。
「今回は和泉国へ帰す。……だが、私は諦めたわけではない。」
鷹丸は真っ直ぐに紗世を見つめた。
「たしかに三条殿は、和泉守殿に恩義があり、今は和泉国を離れ難いだろう。」
そう言って、その手をやさしく包み込む。
「だが、そなたに文を送り続け、心を尽くし、それでも欲しいと願う男がいるなら……和泉守とて、いずれは考えてくださるはずだ。」
紗世の頬が熱を帯びた。
「あ……あの……」
握られた手をそっと離そうとした、その時だった。
ぐい──
鷹丸は紗世の手を引き、そのまま胸の内へ抱き寄せた。
「……離したくないのだ。」
耳元で落とされた囁きに、紗世は息をのんだ。
悔しさを滲ませたような、その切ない声に、
紗世は何も返せなくなる。
「三条殿と出会って、まだ数ヶ月。半年も経ってはおらぬ…」
鷹丸は紗世の顔を見つめた。
「……だが、この想いは偽りでも、仮初めでもない。」
その眼差しは、まっすぐだった。
「そなたに惹かれ……どうしようもないのだ。」
「……恐れ多いことでございます……。」
紗世は、やっとのことでそう言った。
「鷹丸様は……その、ご身分の高いお方なのでしょう……?」
鷹丸の肩がわずかに揺れた。
「中務卿宮様の側近となられるほどのお方です。
そのようなお方に、私のような地方の没落貴族の娘では……釣り合うはずがございません。」
鷹丸は目を見開いた。
「そのようなことを申すな、三条殿。
たとえそうであっても、私の気持ちは本物なのだ。」
紗世はしばらく黙り込み、やがて静かに顔を上げた。
「……私が和泉国へ戻り、時が経ってもなお、鷹丸様のお気持ちが変わらぬのであれば……」
小さく息をのみ、紗世は言った。
「その時は……考えましょう。」
鷹丸はゆっくりと紗世を離した。
「その言葉、忘れるな。」
わずかに口元を緩める。
「私は、そなたが思うよりずっと、しつこくて、一途だぞ。」
「……しつこい、だなんて……」
紗世が思わず笑うと、鷹丸もつられるように笑った。
張り詰めていた空気が、その時ようやくやわらいだ。




