第124話 触れられない距離
───療養部屋
「……すごい熱……。」
紗世は、惟成の額の手拭いを替えた。
頬は赤く、息も熱い。
(今日運ばれてきた人と同じ……。
嘔吐も下痢もない……
でも熱だけが高い……。)
紗世は、不安そうに惟成を見つめた。
(惟成は石鹸で、こまめに手を洗ってたのに……)
そこで、ある考えが頭をよぎる。
(もしかして……あの水瓶の、穢れた水が……)
紗世の指先が、小さく震えた。
「……私を庇ったせいだ……。」
ぽつり、と零れる。
(惟成はいつも、私を護って……
私を庇って、怪我したり、倒れたりして……)
唇を噛みしめながら、紗世は眠る惟成を見つめた。
「……そりゃ、嫌になるよね……。」
掠れた声で呟く。
「ごめんなさい……。」
その小さな謝罪は、雨音の中に静かに消えていった。
───数刻後
「……っ、う……」
小さく唸るような声を漏らし、惟成は微かに目を開けた。
「惟成!」
紗世はすぐに身を乗り出し、その顔を覗き込む。
「喉、乾いてない? 起きられる?」
「……っ」
全身の関節が痛むのか、惟成は顔を歪めながら、ゆっくりと上半身を起こした。
紗世が差し出した瓢を受け取り、そのまま一気に水を飲み干す。
「よかった……ちゃんと水分は摂れたね。」
紗世はほっとしたように小さく息をついた。
「あとね、汗がすごいから、拭いて着替えを――」
そう言って、湯で絞った手拭いを差し出した、その時だった。
パシンッ――
惟成の手が、紗世の手を弾いた。
「……触るな。」
「……え……」
紗世は目を見開いた。
「……あ、そう……だよね。」
零れそうになる涙を、必死に飲み込む。
「惟成の看病は……僧坊の方たちに、お願いするね。」
それだけ言い残し、紗世は静かに部屋を出ていった。
閉じた御簾の向こうで、ぽつりと声がこぼれる。
「本当に……嫌われちゃったんだ……。」
そのまま、ぽろぽろと涙が頬を伝った。
───中務卿宮・別邸
惟成が倒れてから、四日が過ぎていた。
「三条殿! 雉が届いたぞ! これを何に使うのだ?」
鷹丸がどこか楽しげに、数羽の雉を抱えてやって来る。
「ええと……滋養のある料理を作ろうと思いまして。」
紗世は雉を見つめながら、小さく答えた。
あれから一度も、惟成の部屋には行っていない。
僧たちから容態を聞くだけの日が続いていた。
(私には会いたくないだろうけど……料理なら、私が作ったって分からないだろうし……
これを食べて、少しでも元気になってくれたら……)
「それで……十分、だもん。」
思わず、小さく呟く。
「うん? 何が十分なのだ?」
鷹丸が不思議そうに顔を覗き込んだ。
「あ、いえ! 雉の大きさも、量も十分だなって。さすが中務卿宮様のお邸ですね。」
「そなたが作るものは、実に興味深いからな。用意する宮様も楽しいのだろう。」
鷹丸は満足げに笑う。
「で、三条。この雉はどうするのです?」
真砂が首を傾げた。
「ええと、まず台盤所の方に、この雉を肉と骨に分けてもらいたいの。それから……」
そう言いながら、三人は台盤所へ向かった。
───台盤所
持ち込まれた雉は、ほどなくして肉と骨に分けられた。
「ほら、三条殿。この肉はどうするのだ?」
鷹丸が興味津々で覗き込む。
「えっと、肉はまだ使いません。先に骨を使います。」
「骨!!?」
鷹丸と真砂の声が、見事に重なった。
「骨? 骨をどうするのだ?」
「まず軽く水洗いして、捌いた時の汚れを落として――」
紗世は骨を水桶の中で丁寧に洗った。
「この骨を火で炙ります。」
「炙る!!? 骨をか!!?」
「はい。」
紗世はにっこり笑った。
「ち……ちなみに三条殿……今まで料理したことは……」
鷹丸がわずかに青ざめる。
「……ありません。」
真砂がくらりとふらついた。
「三条殿! 悪いことは言わん! ここは台盤所の者に任せよう!!」
「嫌です!」
「三条~~~!」
そんな二人をよそに、紗世は炙った骨を麻袋に入れる。
「麻袋……? 何をするつもりだ?」
紗世はおもむろに、手斧を手に取った。
「ま……まさか……」
真砂が息を呑む。
ガンッ、ガンッ、ガンッ!!
麻袋の上から、骨を叩き砕き始める。
「どうした三条殿!! 乱心したか!!?」
紗世はくるりと振り返った。
「もうっ、二人とも、うるさいです!
少しあっちへ行っててください!」
ぐいぐいと二人の背を押し、そのまま台盤所の外へ追い出す。
台盤所の外に出された鷹丸は、ぽつりと呟いた。
「……真砂殿。」
「はい。」
「三条殿に、何かあったか?」
「特には。」
(惟成様と仲違いが原因でしょうけど。)
真砂は心の中だけで続けた。
「どんな料理が出来ると思う?」
「……料理になるのでしょうか。」
真砂は遠い目をした。
そして、ちらりと鷹丸を見る。
「鷹丸様、召し上がってくださいます?」
「…………三条殿が作ったものなら……」
少し間を置いて、鷹丸は静かに頷いた。
台盤所の奥からは、なおも骨を砕く小気味よい音が響いていた。
───
しばらくすると、宮中からの早馬が鷹丸のもとへ駆け込んできた。
「すまぬ、三条殿、真砂殿! 宮中から急な呼び出しだ。」
「え……これから都へ?」
紗世は、急ぎのためか珍しく馬に乗った鷹丸を見上げて言った。
「ああ。だから今夜は都の邸に泊まることになる。」
そう言いながら、鷹丸はちらりと真砂を見る。
(鷹丸様、上手く逃げましたね。)
(何を言う。私とて三条殿の料理は食べたかった。だが、仕方あるまい。)
二人は一瞬だけ目で会話を交わした。
「用件次第では、そのまま数日ほど都に留まるやもしれん。そうなったら……残念だが、三条殿の料理は皆で食べてくれ。」
「そうですか……。くれぐれも、お気を付けて。」
紗世は少し残念そうに俯いた。
鷹丸たちの姿が見えなくなるまで見送り、紗世はそのまま台盤所へ向かう。
「三条? どこへ?」
真砂が慌てて後を追った。
「何って、料理の続き。
とりあえずここで、雉の肉を細かく刻んで、お米を石臼で挽いて米粉にするところまではやろうと思って。」
真砂の顔がみるみる青ざめる。
「さ、三条……本当に、料理……なのですよね?」
「当然でしょ。」
紗世はきょとんとして振り返った。
「そこまでできたら材料を持って古寺に行こうと思って。
だってこれ、滋養のために作る料理だから、病人に食べてもらうのが一番いいでしょ?」
「びょ……病人に、それを……?」
(紗世様。病人にとどめを刺すおつもりですか……!?)
真砂は心の中で青ざめた。
「ねえ、真砂。」
紗世がじっと真砂を見る。
「……私のこと、疑ってない?」
「い、いえ。そのようなことは……」
真砂は視線を泳がせた。
「ただ、少々……信じ難いだけで……」
「ひどい。」
紗世はむっと頬を膨らませる。
「ちゃんと自分で確かめながら作るから。心配しないで。」
(心配しかないのですよ、紗世様……)
真砂は遠い目をした。
その横で紗世は袖をまくり、小さく気合いを入れる。
「よし。絶対、おいしく作る。」
その言葉だけは、誰に聞かせるでもなく――
まるで自分自身に言い聞かせるようだった。




