第123話 切れた糸
紗世が少将たちのいた部屋へ向かうと、開いたままの蔀戸から雨が吹き込み、畳の一部を濡らしていた。
「うわわ……蔀戸、閉めないと。」
紗世は慌てて駆け寄り、重たい蔀戸を押し上げて閉める。
そのあと、廊下側に置かれていた几帳を抱え、濡れないよう部屋の奥へと移した。
「雨だから暗いなぁ……。御簾の裏って言ってたっけ……。」
そこまで呟いて、ふと首を傾げる。
「……って、どこが雨漏りしてるんだろ?」
薄暗い室内を見回しながら、さらに奥へ進む。
そして御簾に手をかけ、そっと持ち上げた──その瞬間だった。
どさっ──!!
「え──っ、な……」
突然、腕を強く掴まれ、そのまま畳へ引き倒された。
驚いて顔を上げると、御簾の奥には近衛少将と侍従の兄弟がいた。
「少将様……? お部屋を移されたはずでは──」
慌てて身を起こそうとした、その上から。
少将が紗世の体を押さえ込むように覆いかぶさってきた。
「え、ちょっ……何をなさいます!!?」
「何を言う……そなたとて、これを望んでおったのであろう?」
少将が紗世の首筋へ息を落とす。
ぞくり、と背筋が冷たく震えた。
「蔀戸を閉めるなど、察しが良いではないか。」
隣で侍従が面白そうに笑う。
「蔀戸は……っ、雨が吹き込みますので……っ」
「はは。よいよい。そういうことにしておいてやろう。」
「本当に……っ、おやめください!!」
必死に足をばたつかせる。
「やっ……だっ……誰か……っ!!」
「このような古い寺はな、雨が降ると雨音が激しい。声も音も、外には届きにくいものだ。」
さらに腕も足も振りほどこうとするが、少将の体はびくともしない。
もがいた拍子に袴の裾が乱れ、白い脛がのぞいた。
それを見た侍従が、ごくりと喉を鳴らす。
その視線に気づいた少将は、にやりと笑い、さらに袴を乱し、紗世の太ももが顕になった。
「きゃあっ!」
紗世は必死に袴を押さえた。
「……兄上。私を生殺しにするおつもりで?」
「ははっ。お前にも少しは良い思いをさせてやろうと思ってな。」
(どうしよう……っ)
紗世の顔から血の気が引く。
(この人、武官だし……押しても全然びくともしない……!)
ぱしっ──!
紗世は必死に手を伸ばし、少将の顔を押し返した。
「ははは。そのように片手を使えば──ここが隙だらけだ。」
そう言って少将の手が、紗世の胸元へ伸び、小さな膨らみを捉えた。。
「きゃああっ!!」
紗世は咄嗟にその手を掴んだ。
「い……嫌っ!! おやめくださいっ!! やめ──っ!!」
がたーんっ──!!
必死に抵抗した拍子に、近くの几帳を蹴倒した。
──僧坊内・惟成の部屋
「あっ。」
文机に向かい、左兵衛府へ報告を書く手を止めて、惟成が顔を上げた。
(しまった。今朝薪割りで使った斧……外に出したままだったか。)
雨の音を聞きながら、眉をひそめる。
(この雨では錆びるな。)
惟成は立ち上がり、部屋を飛び出した。
⸻
「ふう……とりあえずここに置いて、晴れたら乾かすか。」
手拭いで斧を拭き、道具棚へ戻す。
そのまま自室へ戻ろうとして、僧坊前の庭を横切りかけた時だった。
がたーんっ!!
激しい雨音の向こうに、何かが倒れる音が混じった。
惟成が足を止める。
(今の音は……)
視線を向けた先。
灯りの消えた、暗い僧坊の一角。
──先ほどまで少将と侍従がいた部屋。
(まさか……)
そう思った瞬間。
「いやぁっ! やめてっ!!……やだぁっ!!!」
雨音に紛れながらも。
確かに、紗世の声が聞こえた。
どくん──
心臓が、大きく鳴った。
次の瞬間には、惟成の体はもう走り出していた。
──元・少将と侍従の部屋
「……っく。三条、少しの抵抗なら可愛げもあるが、ここまででは興ざめだぞ?」
少将が紗世の手首を強く押さえ直す。
「おやめください! 私はそんなつもりではありません!!」
紗世は涙を浮かべながら睨み返した。
「……ふん。大人しくしていれば、優しくしてやったものを。」
そう言って、少将が乱暴に紗世の衣を乱した。
「いやっ!!やめてーーっ!!」
──その時。
ダァンッ!!
勾欄を飛び越え、ひとつの影が廊下へ降り立った。
惟成だった。
薄暗い室内。
倒れた几帳。
乱れた衣から顕になった白い肌。
涙を零す紗世。
その光景を見た瞬間。
惟成の中で、何かが切れた。
「何を……」
低い声とともに、傍にいた侍従を引き倒す。
「しているのですかっ!!!!」
続けざまに少将の襟を掴み、紗世の上から引き剥がして床へ叩きつけた。
「ぐっ……! この、源……! 何をしたかわかっておるのか!!」
惟成は、冷え切った目で少将を睨む。
「それはこちらの台詞です。」
静かな声だった。
だが、その怒りは凍るほど鋭かった。
「病から救ってくれた恩ある女房に、何をしたのか……わかっているのですか?」
「貴様……こんなことをして、ただで済むと──」
「このことを?どこへ報告なさるおつもりです?」
惟成が一歩近づく。
「中務卿宮家の恩ある女房を襲い──
そのうえ下級武官ひとりに、あっさり投げ飛ばされた、と?」
「……っ」
少将の顔が引きつった。
「くそっ……!」
少将と侍従は、そのまま逃げるように部屋を飛び出していった。
少将と侍従が去ったあと。
部屋の中には、激しい雨音だけが残った。
紗世はその場に座り込んだまま、呆然として動けなかった。
乱れた衣を直そうとしても、指先が震えてうまく掴めない。
(なんだ……鼓動が、早い……。)
惟成はそっと、自分の胸元を掴んだ。
「……紗世。」
(なぜだ……。
なぜ、こんなに苛立つ……)
惟成の低い声が、すぐ近くに落ちる。
「……あの……」
紗世が顔を上げる。
その怯えた顔を見た瞬間、惟成の胸の奥がまたざわついた。
(紗世は怖い目に遭ったのに……)
「ごめん……なさい……。」
「……なぜ謝る。」
(なぜ、お前が謝る)
「だって……あんなに、惟成に言われてたのに……」
(頭が痛い……
体が……熱い……)
「自覚はあるんだな。」
口から出た声は、思った以上に冷たかった。
(違う。責めたいわけじゃない。)
「ごめんなさい……。」
「自覚があるのに、なぜ一人でここへ来た。」
「部屋を……移ったと思ったから……
あの二人は、いないと……」
「今まで、あの二人がどれほどお前を呼び出そうとしていたか、わかっていただろう……?」
(駄目だ……
感情が、抑えられない……。)
「知ってた……けど……
今回は、そういうの関係ないかなって……」
その瞬間。
ばんっ!!
惟成の手が、柱を強く叩いた。
紗世の肩がびくっと跳ねる。
「今回は!?
関係ないと思った!?」
思わず声が荒くなる。
「俺はお前に、常に警戒しろと言ったはずだ!!」
(違う……
紗世を責めたいんじゃない。
慰めてやらなきゃいけないのに……
なんで、抑えられない……!)
「あ……その……」
「なぜ俺があれほど言っていたのか、理解していなかったのか!!?」
惟成の呼吸が乱れる。
(頭が……ぼうっとする……熱い……)
「理解してたよ……。
でも……まさか、
あの二人がこの部屋にいるなんて……。」
「俺がここへ来たのだって、本当に偶然だった。」
惟成の声が震えた。
「俺が気づかなかったら、どうなっていたか……わかっているのか!!?」
紗世の目に、涙が滲む。
それを見た瞬間、惟成は息を呑んだ。
(違う……
泣かせたいんじゃない……。)
「……っ、ごめ……なさ……」
「……もういい。」
惟成は顔を伏せた。
(頭も体も熱い……
何も考えたくない……。)
「……え?」
「俺は、もう知らん。」
「──え……」
「勝手にしろ。」
そう言い残し、惟成はそのまま部屋を出ていった。
「ま、待って……!」
紗世は慌てて立ち上がり、その背を追う。
「待って、惟成!ねえ……!」
(どうしよう……
惟成、本気で怒ってる……)
廊下で、紗世が惟成の狩衣に手をかけた、
その瞬間──
どさっ──
「惟成!!?」
惟成の身体が、そのまま崩れ落ちた。




