第122話 雨の誘い
「……惟成、なんだか疲れてない? 大丈夫?」
紗世が、そっと惟成の顔を覗き込んだ。
「ん? ああ。問題ない。」
「なら、いいけど……。」
あれから少将と侍従の兄弟は、三条を自分たちの僧坊へ呼び寄せようと、あの手この手を使い始めていた。
嘘をついて真砂と引き離し、三条がひとりになるよう仕向けたり。
若い僧に身分をかざし、三条に世話をさせろと脅したり。
今日は山門の脇に牛車を隠して停め、三条を無理やり乗せようとまでしていた。
そして今、その企てを事前に察した惟成が、牛車と御者を追い返したところだった。
「なに? 牛車が停まってたの? 誰か待ってたの?」
追い返されていく牛車を見送りながら、紗世が首を傾げる。
「今、臥せっている者の家からだった。回復したと思って迎えに来たらしい。だが、今は帰れる状態の患者などいないだろう?」
「少将様と侍従様なら、いつでも帰れるよ?」
「近衛大将家の牛車ではなかった。」
「うーん……じゃあ違うね。」
紗世は小さく唸ったあと、困ったように笑った。
「少将様も侍従様も、何かと私を呼ぶからなぁ……。やっぱり、まだ身体がおつらいのかな。」
(そんなわけがなかろう……!)
惟成はこめかみを押さえたくなるのを堪えた。
「重ね重ね言うが……」
「殿方の僧坊へは、絶対ひとりで行かない、でしょ?」
紗世が先回りして、にこっと笑う。
「……分かっているならいい。」
惟成が小さく息をついた、その時だった。
ばたばたと足音を立てて、一人の僧が駆け寄ってきた。
「三条殿! 新しく病人が運ばれて参りました! 高熱が出ているようです!」
「下痢や、嘔吐は?」
「そのような症状はなく……熱だけのようで」
「熱だけ……」
紗世の表情が、わずかに曇った。
「なんだ。何か引っかかるのか?」
惟成が低く尋ねる。
「うん……。今までの病人は、熱と一緒に下したり吐いたりしてたのに……今回は熱だけ……」
紗世は考え込むように視線を落とした。
(今までの患者と、症状が少し違う……。
原因が違うってこと?それともただ軽症ってだけとか……。
石清水八幡宮の水源、最初に穢された時と、二度目に穢された時で……発生したものが違うのかもしれない。)
「対処を変えた方がいいのか?」
「ううん。やること自体は変わらないよ。……たぶん。」
紗世は小さく首を振った。
「では、療養用の僧坊へお運びすればよろしいでしょうか?」
僧がおずおずと尋ねる。
「あ……」
紗世は一瞬考え込んだ。
(でも、もし違う病なら……分けた方がいいよね)
「できれば、今までの病人とは部屋を分けてほしいです。」
「かしこまりました。」
僧は深く頭を下げると、すぐに戻っていった。
「療養の部屋を増やすのか?」
「うん。病の種類が違うかもしれないから。」
惟成は静かに紗世を見つめた。
(紗世の動く場所が増えれば、それだけ隙も生まれる。
今まで以上に、あの二人を警戒せねばならんな……。)
小さく、息をつく。
───近衛少将と侍従の僧坊
「どうなっているのだ。」
少将が、苛立たしげに声を荒げた。
「三条が、まるでこちらへ来ぬではないか。」
「呼んでいた牛車も、回復した者はいないと返されたそうです。」
侍従も落ち着かない様子で言う。
「しかし兄上、どうなさるのです。そろそろ、ここに留まるのも限界では……。」
「もうよい。」
少将が低く吐き捨てた。
「僧だの下人だの……役に立たぬ者を頼ったのが間違いだった。」
「では、どうやって……」
少将はゆっくりと外へ目を向けた。
いつの間にか、空には重い雲が広がり始めている。
「もうじき、雨が降る。」
ぽつり、と呟く。
「天の恵みというものは……使いようだ。」
その口元が、ゆっくりと歪んだ。
紗世が、新たに運び込まれてくる病人のための部屋を整えていた時だった。
「──え? お部屋を移動?」
「はい。少将様と侍従様のお部屋なのですが、雨漏りがするとのことで……。
雨漏りのない、このお部屋の二つ隣へ移られてもよろしいでしょうか……?」
若い僧が困り顔で言った。
(確かに、このお寺も古いもんねぇ。あちこち傷んでるし。)
「お寺の方々に差し支えなければ、移動は構いませんよ。」
「ありがとうございます。それでは少将様方のお部屋を移動いたします。」
「はい。お願いします。」
ゴロゴロゴロ……
ピシャーーン!
雷が落ちた。
「きゃあっ!」
真砂が思わず身を縮める。
「真砂、大丈夫? 昔から雷、苦手だったもんね。」
「紗……三条はなぜ平気なのですか? あんな恐ろしい……」
ゴロゴロゴロ……ドォーン!
「きゃあああああっ!」
「真砂……今日はもうあまりやることもないし、少し部屋に戻って休んだら?」
「よ、よろしいのですか……?」
真砂は涙目で紗世を見上げた。
「うん。これから来る病人は、嘔吐も下痢もないみたいだから。できるのは飲み物を飲ませるのと、汗を拭くくらいだし。」
「で……では、お言葉に甘えて……」
真砂はビクビクしながら廊下を渡っていった。
「三条殿。」
呼ばれて振り返ると、惟成が立っていた。
「なあに?」
「新しく来る病人は男か? 容態は?」
「うん。殿方だって。今のところ本当に熱だけみたい。」
「そうか。ここは男だけになるな。……なら、女人の療養部屋か自室へ行け。この僧坊から離れろ。」
「わかってるよぉ。」
(心配性だなぁ。)
紗世は小さく笑う。
「何を笑っている。早く行け。」
惟成は眉をひそめ、紗世の背を軽く押した。
(さてと、新しい病人用の飲み物と石鹸、水桶は用意したし……。看病は僧の方々に任せても大丈夫かな。
この雨と雷じゃ帰るのも難しいし、お部屋で真砂と少し休もう。)
そんなことを考えながら廊下を渡っていると──
「あ、三条殿!」
僧に呼び止められ、足を止める。
「何でしょう?」
「先ほど少将様方から聞いたのですが、元いたお部屋の御簾の内側に、三条殿か真砂殿の櫛か簪のようなものが落ちていたそうで……」
「え……?」
(そんなもの、無くした覚えは……)
「少将様方が、雨漏りも酷い故、早めに取りに行った方が良いのではと仰っておりました。」
「そうですか……。分かりました。ありがとうございます。」
紗世は小さく頭を下げると、人の気配の消えた僧坊の一角へ、ぱたぱたと歩いていった。




