第120話 懐かしの君
───宮中の渡殿
「源氏の君!」
背後から呼ばれ、源氏の君が足を止めて振り返ると、そこに立っていたのは陰陽頭だった。
「おお、陰陽頭ではないか。久しいな。」
「ええ。源氏の君におかれましては、いかがお過ごしでしたかな。」
「私か? そうだな……最近、少し疲れておるかな。」
源氏の君は、わずかに苦笑した。
「そうですな。まだまだ宮中には、あの政争の名残が色濃く残っておりますからな……。」
「ああ。父帝も、あの熾烈な争いをご覧になってしまわれたからか、朱雀帝が即位してほどなく、お隠れになってしまわれた……。」
そう言って、源氏の君はふと空を見上げた。
「では、少しだけ気の晴れる話をいたしましょうか。」
「ほう。なんだ?」
陰陽頭は辺りを見回し、人の気配がないことを確かめると、そっと声を落とした。
「和泉殿に、お会いしましたよ。」
その言葉に、源氏の君の目が見開かれた。
「なんと……それは、いつだ。どこで会った。」
先ほどまでの疲れた表情が、みるみるうちに消えていく。
「宇治にて。」
「宇治に? まだ和泉殿は宇治にいるのか。宇治のどこだ。」
思わず身を乗り出す源氏の君に、陰陽頭は静かに答えた。
「中務卿宮様の別邸に身を寄せております。」
「……中務卿宮様の?」
意外な名に、源氏の君は眉を寄せた。
「和泉殿が、あの宮のもとに? どういうことだ。」
「話せば長く、そして少々ややこしゅうございます。」
「ややこしい、か……。」
源氏の君は小さく息を吐いた。
「しかし、あの宮ならば……たしかに存在そのものがややこしいお方ではあるな。」
「ええ。ですので、できれば落ち着いてお話できる場所で。」
「ならば、二条へ来い。葵も若紫も和泉殿を知っておる。構うまい。」
「かしこまりました。後ほどお伺いいたします。」
陰陽頭は穏やかに笑みを浮かべた。
───二条邸
「よし、陰陽頭。存分に話せ。」
部屋へ入るなり、源氏の君はそう言った。
御簾の内には、葵の上と若紫の姿もある。
「和泉は、なぜ宇治に?」
御簾の向こうから、葵の上の静かな声がした。
「そうですな……では、和泉殿が宇治にいる理由から。」
陰陽頭はひとつ頷くと、順を追って語り始めた。
和泉殿が中務卿宮の頼みで宇治へ赴いていること。
中務卿宮の別邸をはじめ、敦高親王一派の貴族やその従者たちが、呪詛と思われる病に倒れていたこと。
和泉殿がその病人たちの看病をしていること。
石鹸、病の者に飲ませる特別な飲み物、そして湯殿までも作り上げていたこと。
それらが実際に効果を上げていること。
中務卿宮が「鷹丸」と偽り、和泉殿もまた「三条」と名乗っていること。
そして宇治での祓いの儀にて、右大臣方と思われる者による集団呪詛が仕掛けられ、不発に終わったこと。
さらに、中務卿宮が三条に強く心を寄せていること。
そして惟成までもが宇治にいること。
それらを一つずつ話し終えるころには、部屋の空気はすっかり静まり返っていた。
長い沈黙のあと、源氏の君が深く息をついた。
「……何をしているのだ、和泉殿は。」
呆れたような口調だったが、その声音にはどこか安堵も混じっていた。
「しかし……なんとも和泉殿らしい。」
懐かしそうに目を細める。
「変わっておらぬのだな……。」
それから腕を組み、ゆっくりと天井を仰いだ。
「中務卿宮様が、和泉殿を……か。」
少し考えるように黙り込み、やがて苦笑する。
「私の一つ上ゆえ、年が明ければ二十三。これまで表立って浮いた話ひとつなかった宮だ。」
陰陽頭は、表向き平静を保ちながら耳を傾ける。
「それほど何もないゆえに、男色の噂まで立ったほどのお方が……。」
(そんな噂まであったのか……)
陰陽頭は内心だけでそう呟いた。
すると御簾の内から、葵の上が静かに言った。
「ですが、和泉は三条と名乗っているのでしょう。和泉守の姫であることも隠しているのなら……三条はいずれ表から姿を消さねばなりません。宮様のお心は、実らぬのではなくて?」
「甘いぞ、北の方。」
源氏の君はぴたりと御簾の方へ指を向けた。
「あの宮は、用意周到で、しかも動きが早い。おそらく今ごろ、三条を都へ留める理由まで考え始めているはずだ。」
「まあ。」
葵の上は小さく笑った。
「さすが、源氏の君の従兄弟君でございますこと。」
「……どういう意味だ、北の方。」
「そのままの意味でございます。」
「……そうか。」
源氏の君は小さく肩を落とした。
陰陽頭は苦笑しながらも、すぐに表情を引き締めた。
「さて……ここから先は、少々政治の話になります。」
その一言で、部屋の空気がぴんと張り詰める。
「宇治で起きた一連の呪詛騒動――黒幕は、おそらく右大臣方でしょう。」
「……そうだな。」
「今回、狙われたのは敦高親王に近しい家々。ですが、その括りでいえば――」
陰陽頭はまっすぐ源氏の君を見た。
「源氏の君、あなたも例外ではありません。」
源氏の君の目がわずかに細くなる。
「世間の評判も高く、政でも目立つ。しかも左大臣家に連なるお方。右大臣方にとって、あなたは最も目障りな存在の一人でしょう。」
「そして、桐壺帝の崩御……。」
「ええ。叩くなら今、と考えてもおかしくはありません。」
しばし沈黙が落ちた。
「普段の一挙手一投足にも、どうかお気をつけください。」
「……そうだな。」
源氏の君が静かに頷くと、御簾の向こうから葵の上が冷ややかに言った。
「でしたら当分、他の姫君方のもとへ通われるのはお控えになっては?」
「な、何を申す、北の方。私は昨日も夜はそなたと――」
「源氏の君!」
葵の上が慌てて遮る。
「陰陽頭様がおいででしょう。」
陰陽頭は扇で口元を隠しながら、くすりと笑った。
「仲がよろしゅうございますな。
……とにかく、くれぐれもお気をつけを。」
「うむ。」
源氏の君は頷き、それからふっと遠くを見る。
「……それにしても、宇治か。」
その声音は、ひどく柔らかかった。
「和泉殿に、会いたいものだ。」
「会うなら三条として、でしょうな。」
陰陽頭も小さくため息をつく。
「ですが三条としてでは接点がない。和泉殿として会うなら、中務卿宮様のいない時を見計らわねばなりません。」
「……ややこしいな。」
「本当に。」
陰陽頭は肩をすくめた。
「鷹丸と三条などと……お互い偽名を名乗るとは。」
源氏の君と陰陽頭は、揃って天井を仰いだ。




