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第119話 静かな火種

───陰陽頭、帰りの牛車


(はぁ……体も芯から温まっているし、この揺れは心地よい。都までこのまま眠れそうだな……。)


陰陽頭は牛車の中で、ゆるりと身体を横たえていた。


(それにしても……)


ゆっくりと瞼を閉じる。


(和泉殿が宇治に居たとはねぇ……。

しかも“病は移るもの”と捉えて、あのように看病をしていたとは。)


再びゆっくりと目を開ける。


(石鹸、熱湯を使った清め、病人のための飲み物、湯殿……次から次へと、まぁ……面白い子だ。)


陰陽頭は懐から、石鹸や飲み物の作り方が書かれた紙を取り出した。


(呪詛の気配がない病に対しては、これらが有効かもしれない……。)


「人を救う術を次々と考えるとは……中務卿宮様も、さぞ興味を持たれ」


そう呟いた瞬間。


「──っあーーーーーっ!!」


思わず声が漏れた。


「陰陽頭様!? いかがなさいましたか!」


御者が慌てて声を上げる。


「ああ、いや……何でもない。」


咄嗟に取り繕いながらも、内心は騒がしい。


(中務卿宮様は恐らく和泉殿に心を寄せておられる。しかし和泉殿は“三条”を名乗っている……。


このままなら、“三条”という女房は、いずれ表から消えることになる。)


「……これからどうする……どうなるのだ…。」


ぽつりと呟く。


「……三条が都を離れる前に、宮様が何か動かれるやもしれぬ。」


(あり得る……あのお方なら、十分にあり得る。

決めるときは速い。今回の件も収束に向かえば、三条を都になんとか留めようとするやもしれぬ。)


陰陽頭の顔色が、青くなったり白くなったりを繰り返す。


(それに……)


視線を外へ向ける。


(和泉殿が語っていた“鷹丸”という男は、中務卿宮様その人だろう。


互いに偽名を名乗るとは……何とも奇妙なことをなさる。


……いずれどこかで、正体を明かすことになだろうが…


そうすれば、和泉殿は……


もし求められれば……断れる立場ではあるまい。)


陰陽頭はそっと目を伏せた。


脳裏に、紗世と惟成、二人の穏やかで微笑ましい姿が浮かんだ。


「今回は少々……厄介かもしれないな、惟成殿。」



───中務卿宮・別邸


廊下の向こうから、衣擦れの音と人の話し声が聞こえてきた。


「あれ? 鷹丸様、お戻りになられたのかな。」


「本当ですわね。お声がいたします。」


紗世と真砂は、布団からそっと身を起こした。


燭台を手に取り、二人は廊下へと出ていく。


「おお、三条殿、真砂殿。起こしてしまったか。すまないな。」


「いえ。遅いお帰りでお疲れのところ、お茶でもお持ちいたしましょうか。」


「それはありがたい。頼む。」


紗世と真砂は、茶と簡単な軽食を用意し、鷹丸の部屋へと運んだ。


「今日は祓いの儀に行けず、申し訳なかったな。」


鷹丸はそう言ってから、静かに続ける。


「聞いたぞ。呪詛騒ぎがあり、大捕物があったそうだな。」


「ええ。ただ、呪詛は陰陽頭様が事前に術を破っておられたようで、不発に終わりました。その後は、どこからともなく兵が現れ、あっという間に制圧されました。」


「そうか。二人とも、怪我はないか。」


「はい。私たちは何ともございません。」


紗世と真砂は顔を見合わせ、小さく頷いた。


「あの、鷹丸様。」


「なんだ。」


「今回の呪詛は、誰が狙われていたのでしょうか。」


鷹丸はわずかに目を細めた。


「中務卿宮家、大納言家、中納言家、近衛大将家──すべてだ。」


「……そんな、上級貴族ばかりを。なぜ……」


「最近、新しい帝が即位されたことは知っているな。」


「はい。朱雀帝が即位されたと。」


「朱雀帝の後ろ盾は、右大臣家だ。母は弘徽殿の女御、つまり右大臣家の血筋だな。」


「はい。」


「朱雀帝が即位する前、その座を巡って大きな政争があった。」


(知ってる……。そのせいで、私は都に戻れなかったんだもん。)


紗世は胸の奥で小さく呟いた。


「朱雀帝は第二皇子である高明(たかあきら)親王だ。本来なら第一皇子である敦高(あつたか)親王が東宮となるはずだった。」


「ええ。」


「だが敦高親王の母は家格が低く、当初から東宮には不適格と見られていた。本人もまた、自分にはその器がないと考えていたようでな。むしろ高明親王こそ相応しいと周囲に語っていたという。」


「それでも、政争は起きたのですね。」


「ああ。」


鷹丸は少しだけ視線を落とした。


「敦高親王の人柄や学識こそ国を治めるに相応しいと考える者たちが、次第に勢力を強めていった。」


「その家門というのは……」


「そうだ。大納言家、中納言家、近衛大将家、そして中務卿宮家を中心とする一派だ。」


紗世は静かに息を呑む。


「やがて譲位の話が現実味を帯びると、双方の対立は一気に激しくなった。敦高親王も期待に応えようとしたが──結果は、争いだけが肥大化した。」


鷹丸は一瞬、言葉を切った。


「怪我人、病人、不正の暴露と濡れ衣、そして命を落とす者まで出た。」


「そんな……」


「やがて敦高親王は自ら身を引き、そのまま出家された。これ以上、争いを見たくないとな。」


紗世は小さく呟いた。


「とても……お優しい方なのですね。」


「ああ。だがその優しさゆえに、今も火種は残っている。」


鷹丸の声が少しだけ重くなる。


「右大臣側は、いまだに敦高親王派を警戒している。自らの過去を知る者たちだからな。」


「だから、根を絶とうと……。」


紗世が言いかけると、鷹丸は静かに頷いた。


「今日捕らえた僧たちは、まだ口を割らぬ。」


「ですが、仮に黒幕が明らかになっても……」


「ああ。右大臣側は知らぬ存ぜぬを通すだろうな。直接手は汚さぬ連中だ。」


紗世は俯いたまま、ふと顔を上げた。


「鷹丸様、今日の儀で持ち込まれた水瓶ですが……やはり石清水八幡宮の湧き水が使われていたのですか?」


「ああ。それも調べさせている。表向きは処理が済んでいたはずだが、再調査に入らせた。」


「何か……報告は?」


鷹丸はわずかに声を落とした。


「熱病で亡くなったと思われる庶民の遺体と、濁った水が見つかったそうだ。」


「──っ」


紗世は息を呑み、扇を取り落とした。


(惟成……!)


「危うく、三条殿もその水を浴びるところだったそうだな。無事で何よりだ。」


「ええ……私はほとんど浴びておりません。武官様が庇ってくださったので。」


「そうか……。」


鷹丸は静かに頷いた。


「今日はもう休むと良い。真砂殿も。」


「はい……。」


二人は頭を下げ、静かに部屋を辞した。


廊下に出ると、真砂がそっと声をかける。


「紗世様……惟成様は、きっとご無事です。湯殿で清めもなさいましたし。」


「うん……。」


紗世は小さく頷いた。


それでも胸の奥に残る不安は、すぐには消えなかった。

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