第118話 髪に残る温もり
「三条殿、湯殿の用意ができました。どちらの方がお使いになりますか。」
僧が紗世のもとへ歩み寄り、そう声を掛けた。
「湯殿……?」
「湯殿とは? また何かを作ったのかい?」
惟成と陰陽頭が揃って首を傾げる。
紗世は少し照れたように笑った。
「えへへ……。鷹丸様に、こんなものがあったら良いなって、何気なく話したら、ずいぶん細かく聞かれてしまって……。」
───宇治へ来て間もない頃
「湯殿…っていうか、湯に浸かれる場所があったらなぁ……。身体をもっと清らかに保てて、病にもかかりにくくなるのに……。」
紗世は、ふと現代の風呂を思い出しながら呟いていた。
その小さなひとり言を、鷹丸は聞き逃さなかった。
「何? その“ゆどの”とは何だ? 何に使うのだ? どのようなものなのだ?」
興味津々といった様子で、矢継ぎ早に問いかけてくる。
「ええと……温泉を、邸の中に作るような感じです。」
「温泉を……? どうやって?」
「あ、いえ。温泉そのものを引くのは無理ですから、人が浸かれるほどの深い桶に、お湯を溜めるのです。」
「ほう。」
「全身お湯に浸かった方が、穢れも落ちやすいですし、身体も内側から温まります。」
鷹丸は感心したように頷くと、すぐに紙と筆を取り出した。
「もし作るとしたら、どう作るのが良いと思う?」
「うーん……言葉だけでは難しいですね。絵にした方が分かりやすいかもしれません。」
そう言って紗世は、浴槽の形や、湯を溜める仕組み、湯を流す仕掛け、身体を洗う場所、着替えの場所まで、思いつくままに描いていった。
鷹丸はその横で、紗世の説明を書き留めながら何度も頷いている。
やがて紙いっぱいに、細かな書き込みが増えていった。
「おお……これはすごいぞ、三条殿。」
「あはは……でも、作るのは大変だと思います。費用もかかるでしょうし。こんなのがあったら良いなと思っただけです。」
紗世は控えめに言ったが、鷹丸の目はすっかり輝いていた。
「いや、これは私も使ってみたい。中務卿宮様にも話してみよう。この図、借りるぞ。」
そう言い残し、鷹丸はそのまま邸を出ていった。
そして二日後。
古寺には職人と大量の木材が運び込まれてきた。
「鷹丸様……これは、一体……。」
紗世が呆気に取られていると、鷹丸は得意げに笑った。
「中務卿宮様に話したら、それは面白い、ぜひ作れと仰せでな。人も材料も、すぐに揃えてくださった。」
(皇族の財力と権力……それに鷹丸様の行動の早さ、さすが……。)
そうして紗世は、看病の合間に職人たちとやり取りを重ねながら、湯殿を完成させた。
以来この古寺では、回復した病人たちに最後の清めとして、湯殿で身体や髪を洗い、湯に浸かってもらうようになっていた。
───
「さ、惟成。ここで清めてきて。」
紗世はくるりと振り返った。
「いや、待て。これは、どういう造りで、どう使えばいいのだ。」
惟成は目の前の建物を見ながら言う。
「ええと……じゃあ、説明するね。」
紗世はそう言って扉を開け、中の脱衣の場所、身体を洗う場所、湯に浸かる場所をひとつひとつ説明していった。
その横から、陰陽頭が羨ましそうに中を覗き込む。
「えー……良いなぁ。私も使ってみたい……。」
「惟成はしばらくここへ泊まるので良いのですけど……陰陽頭様、お時間は大丈夫なのですか?」
紗世が尋ねると、陰陽頭はふと遠くを見た。
(中務卿宮には今回いろいろ面倒を押しつけられたし……これくらいは良いよねぇ……。)
「うん。大丈夫。報せくらい、下の者がうまくやるだろうから。」
「そうですか? でしたら、陰陽頭様の分のお湯も用意してもらいますね。」
嬉しそうにそう言う紗世に、惟成と真砂は少し呆れた顔で顔を見合わせた。
────
「いや〜〜最っ高だねぇ。良いもの作ったね、いず……三条殿。」
湯殿から出てきた陰陽頭は、扇をぱたぱたと仰ぎながら満足そうに言った。
しかし、そこにいたのは真砂だけだった。
「……ってあれ? 三条殿は?」
「三条でしたら、あちらのお部屋で惟成様のお髪を乾かしておられます。惟成様とご一緒です。」
真砂が淡々と答える。
「私は時間がなかったから、髪までは洗えなかったけど……惟成殿は頭から穢れた水を被ってたからねぇ。」
陰陽頭は思い出すように言い、ふっと笑った。
「──そうかそうか。三条殿に髪を乾かしてもらってるのか──」
にこりと口元を緩める。
「いっそもう、契っちゃえよ。」
「っふ!」
真砂は思わず吹き出した。
───僧坊の一角の部屋
「湯冷めしてない? 大丈夫?」
紗世は惟成の髪を櫛で梳かしながら尋ねた。
「ああ。問題ない。」
惟成は短く答える。
「惟成の衣、全部一回ここで洗わせてもらうね。」
「頼む。」
迷いなく返るその声に、紗世は小さく頷いた。
「あと今日、穢れた水を頭から被ったでしょう。ごめんね。ありがとう。」
「紗世が謝ることではないだろう。」
惟成は少しだけ視線を落とした。
「でも……私を庇ってのことだったし。」
「負わなくていい責任を負おうとする、お前の悪い癖だ。」
「うん……。」
紗世は素直に小さく頷く。
そして、少し間を置いてから言った。
「あとね、七日くらいは熱とか吐き気に気をつけて。」
「移る病か?」
「湯殿で石鹸を使って体は清めたけど、頭から水を被った時に、目や鼻や口から入ってるかもしれないの。」
惟成の表情がわずかに引き締まる。
「……」
「体の中に入ったものは、さすがに清めきれないと思う。」
「七日とは。なぜそのように区切る。」
「今までの人も、同じ水を口にしてから症状が出るまで、二日から七日くらいばらつきがあったの。すぐには出ないみたい。」
「そうか。」
紗世は再び、惟成の髪に手拭いを当てて水気を取った。
「近衛少将様と侍従様は、どれくらいで良くなりそうだ?」
「見た感じだと、もう自分で食事もできて歩けると思う。……後に来た人の方が先に回復してたりもするし。」
(あの仮病兄弟め……。)
惟成は心の中で小さくため息をついた。
「他に、重い者はいるか?」
「女人の方は、意外と回復が早くて。中納言様の一の姫君と三の姫君も、もうほとんど大丈夫。まだ注意が必要なのは年嵩の女房二人と、庶民の子供一人かな。」
「まだ残っているのか。」
「もし石清水八幡宮の湧き水が原因なら、また新しく運ばれてくる人もいるかもしれないし……しばらくは油断できないかな。」
「お前は?大丈夫なのか?」
「え?」
突然の問いに、紗世は瞬いた。
「ずっと病人に寄り添っているのだろう。移る病なら、お前が一番危うい。」
「こまめに清めてるし、休憩も取ってるよ。……移ったら移ったで仕方ない!」
「本当にお前は……」
惟成は小さく息を吐く。
「心配させるな。」
「努力する!」
少しだけ笑って、紗世は答えた。
「今日はもう、中務卿宮様の別邸に戻るのだろう。」
「うん。また明日来るから。」
「ああ。また明日。」
二人の間には穏やかな空気が流れていた。




