第117話 触れさせぬ想い
紗世は御簾の前に座り、静かに声を掛けた。
「少将様、侍従様。三条にございます。入ってもよろしいでしょうか。」
「おお、三条か。早う入れ。」
中からすぐに声が返ってくる。
病に伏せている者にしては、妙に張りのある声だった。
(本当に具合が悪いのか……?)
惟成はわずかに眉をひそめながらも、紗世の後ろに控えた。
紗世は御簾をそっと持ち上げ、中へ入る。
「お二人とも、お加減はいかがでございましょう。お顔色も少しは良くなられたようで……」
紗世がそう言いかけると、
「何を申す、三条……。まだ全身が熱く、身体を起こすのもつらいのだ。のう、侍従。」
兄の少将が、わざとらしく息をつきながら言った。
「ええ……。食事もろくに喉を通りませぬ。しかし、僧たちの世話では落ち着かぬ。われらの介添えは三条がいたせ。」
弟の侍従も、それに続くように咳払いをひとつする。
(近衛大将のご子息……たしか、兄が近衛少将様で、弟が侍従様だったか。)
惟成は御簾の内をちらりと見やった。
「ですが……あちらの女人の病人の僧坊は、私と真砂でなければ対応できません。こちらは僧の方々にお願いするしか……。」
紗世は申し訳なさそうに言ったが、二人は引かなかった。
「ここで一番、身分が高いのは誰だ。」
「……少将様でございます。」
「そうだ。三条とて、我らの病が悪化して困るのはそなただろう。」
「……はい。」
「ならば介添えいたせ。汗をかいたゆえ、着替えたいのだ。こちらへ参れ。」
その時だった。
「──少将様、侍従様、失礼いたします。」
御簾の外から声がかかるのと同時に、御簾が上げられた。
「な、何だ。誰だお前は。」
「左兵衛府が兵衛志、源惟成にございます。お着替えであれば、私が介添えいたしましょう。」
惟成はにこやかな顔のまま、二人を見た。
「……ふ、ふん。やはり今はよい。この部屋は寒い。三条、部屋を暖めよ。」
「はい。承知いたしました。」
紗世は頭を下げ、そのまま御簾の外へ下がった。
「三条殿、お二方のご様子はいかがでしたか?」
若い僧がすぐに歩み寄ってくる。
「うん。お顔色は良くなっていると思うんだけど、まだ調子は悪いみたい。お部屋を少し暖めてあげてください。」
「承知いたしました。」
「紗──……三条殿。」
惟成が紗世を呼んだ。
「なに?」
「少し、こちらへ。」
惟成は僧坊の外へ視線を向け、外へ出るよう促した。
その様子を見ていた陰陽頭は、面白そうに目を細める。
真砂は小さく頷きながら、心の中でそっと手を合わせた。
(惟成様、姫様に一度きちんと言ってやってくださいませ。)
紗世だけが事情の分からない顔で、小さく首を傾げていた。
───僧坊の外
「なんだ、あれは。」
僧坊を出るなり、惟成が低い声で言った。
「あれ、とは?」
紗世は首を傾げる。
「少将様と侍従様だ。あれでは、魂胆が見え透いているではないか。」
惟成はため息混じりに言った。
「そりゃ……さっきのは、さすがに私もそう思ったけど。でも、あのお二人も最初は本当に大変だったんだから。」
紗世はそう言って、惟成を見上げた。
惟成は何も言わず、ただ黙って紗世を見る。
「ここに運び込まれた時は、高熱と痛みで意識も朦朧としていて、会話もほとんど成り立たなかったし」
惟成の顔が、一瞬だけ強ばる。
「食べ物も飲み物も、口にしては吐くか、お腹を下すかで、なかなか体の滋養にもならなかったし」
「……」
「熱で汗もひどくて、殿方だから身体も大きいでしょう。汗を拭くのも一苦労で」
「……ん?」
「そのうえ、お腹も下しっぱなしだったから、単も指貫も、洗っても洗っても追いつかなくて──」
「待て待て待て待て。」
惟成が片手を上げて、紗世の言葉を止めた。
「え? なに?」
「お前が、あのお二人の汗を拭いたり、着替えまでさせたのか?」
「だって、ここの僧坊の人たち、なかなか言う通りにしてくれないんだもの。」
紗世は少し困ったように言う。
「いや、そうだとしても……」
「みんな、呪詛がかかるのを怖がってしまって。今でこそ軽い人の介添えくらいまではしてくれるけど、嘔吐も下痢も熱もある人には、怖がって近づこうとしないの。」
惟成は、思わず空を仰いだ。
しばらく黙ったあと、静かに口を開く。
「……お前の言い分は分かった。」
その声は、妙に落ち着いていた。
「……だがな、お前も女人で、本来は和泉守の姫君なんだぞ。」
「……うん。」
「貴族の娘がすることではない。それに、女人が夫でもない男の肌に触れるなど、あってよいことではない。」
紗世は唇を噛み、少しだけ視線を落とした。
けれど、すぐに顔を上げる。
「……そうかもしれない。でも、みんながやりたがらないなら、誰かがやらなくちゃいけないでしょう。そうしなければ、助かる人も助からなくなっちゃう。」
まっすぐに見つめられ、惟成は小さく息をついた。
「ここの僧坊へは、絶対に一人で入るな。」
「……うん。」
「必ず誰か、僧と一緒に入れ。」
「わかってる。」
「それから、少将様や侍従様に呼ばれた時は、俺を呼べ。一緒に行く。」
「え? でも惟成は、都へ帰ってしまうでしょう?」
惟成はわずかに口元を緩めた。
「宇治にて穢れに触れ、発病の疑いあり──そう報せておく。そうなれば、しばらくは都にも宮中にも近づくなと言われるだろう。」
「……じゃあ……もう少し、ここにいてくれるの?」
紗世の表情が、ぱっと明るくなる。
「お前は、目を離すと何をしでかすか分からん。真砂殿が気の毒だからな。」
そう言って、惟成はかすかに笑った。
────
紗世と惟成が僧坊へ戻ると、陰陽頭が手に瓢を持っていた。
「三条殿、例の飲み物を味見させていただいているよ。」
陰陽頭は好奇心に満ちた目で、瓢から注がれた器へ視線を落とした。
そして、そのまま一口含む。
「ほう……不思議な味だね。不味くもないが……美味いという感じでも……」
そう言いかけた時、傍にいた僧が口を開いた。
「ですが、病人たちは皆、揃ってその飲み物が美味いと申すのです。」
「これを?」
陰陽頭は目を見開いた。
「はい。不思議なことに、病の重い者ほど美味いと言い、病が軽くなるにつれて、美味しくない、これは本当に同じ飲み物なのか、と申すのです。」
「病状によって、中身を変えているのか?」
惟成が紗世に尋ねた。
「いいえ。中身はすべて同じです。」
紗世は静かに首を横に振った。
「昔、書物で読んだことがあるのですが、身体が欲しているものは美味しく感じ、必要としていないものは美味しく感じないのだそうです。」
「ほう……。では、この飲み物には病んだ身体が求めるものが入っている、ということか。」
陰陽頭は感心したように器を見つめた。
「逆に、健康な者にはそれほど必要のない飲み物……というわけだね。」
「そのようなことなのかもしれません。」
紗世が答えると、陰陽頭は手にした瓢を軽く持ち上げた。
「三条殿、これを一ついただいてもいいかな。あとで、この飲み物と石鹸の作り方も教えてくれるかい?」
「はい。もちろんでございます。」
紗世は素直に頷いた。
陰陽頭がすんなりと受け入れてくれたことに、紗世は胸の内でそっと安堵していた。
思い込みの強い方であれば、受け入れるどころか、咎められていてもおかしくない。
そう思うと、なおさらだった。




