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第115話 阻まれた呪

祭壇の前に立つ陰陽頭の祝詞は、やがて細く、消え入るように終わりへと向かっていった。


静まり返る堂内。


やがて、水瓶を運んできた僧たちが、目配せと手振りで出席者たちに器の水を口にするよう促し始める。


──その時だった。


ガッシャアアアアアン!!!


乾いた破裂音が響き渡る。


紗世が、すぐ傍にあった水瓶を倒したのだ。


瓶は廊下を転がり、そのまま庭へと落ち、玉砂利の上で無残に砕け散った。


「今、この水甕の中から虫が出てきましたわ!!」


紗世は扇で口元を隠しながら、鋭く声を張る。


「え……!?」

「きゃあっ!!」


姫君や女房たちは悲鳴を上げ、手にしていた器を取り落とした。


僧のひとりが慌てて駆け寄る。


「そ、そのようなこと……見間違いでございましょう!」


取り繕う声音。


だが紗世は一歩も引かない。


「いいえ、確かに見ましたわ。黒く、平たいものが──瓶の中から這い出てきました。他の瓶も、すぐにお確かめを。」


ざわり、と場の空気が揺れる。


「やめぬか!神聖な儀を妨げる気か!」


庭先の僧が苛立ちを露わにした。


「神聖であるならばこそ、誤りがあってはなりませぬ。」


紗世は静かに、しかし強く言い返す。


その瞬間──


「……っ、この女房が!」


近くにいた僧が苛立ちのままに踏み出し、紗世の袖を荒く払いのけた。


バランスを崩した紗世の体が、廊下へと崩れ落ちる。


「っ……!」


周囲の女房たちが息を呑む。


──次の瞬間。


ザザザザザザッ!!


玉砂利を蹴る鋭い足音。


武官が一気に南階を駆け上がり、勾欄を越えて僧へ間合いを詰める。


ダァンッ!!!


紗世を押し倒した僧は、そのまま壁へと押しつけられた。


「──何をしている。」


低く、冷えた声。


「……惟成……。」


倒れたまま、紗世は顔を上げる。


「水瓶を改める!誰も口にするな!!」


惟成の声が、場を切り裂くように響いた。


「……っ、くそ……!」


ひとりの僧が焦りの色を浮かべる。


そして次の瞬間、苦し紛れか水瓶を紗世へ向けて振りかぶった。


(え……っ!うそっ……!)


紗世は思わず目を閉じる。


───バシャアッ!!!


水が弾ける音。


(……あれ……?)


濡れる感触が、ない。


恐る恐る目を開けると──


そこには、見慣れた背中があった。


「惟成!」


頭から水を被った惟成が、紗世の前に立っている。


「問題ない。」


短く言い、僧を睨み据える。


水を浴びせた僧が、庭先へ向かって叫んだ。


「もうよい!呪を放て!!」


その声を合図に、水瓶を運んできた僧たちが一斉に印を結び、低く呪を唱え始める。


重なり合う声。


それは祝詞とは異なる、重く不気味な響きだった。


場にいる誰もが、四方から迫る呪の気配に息を呑む。


やがて詠唱が終わり──


中心にいた僧が、鈴を高く振り上げた。


シャアアアアン!!!


澄んだ音が、場を貫く。


──静寂。



「…………」



「………………」


何も起こらない。




?????




その時。


「……っ、ふ」


祭壇の前の陰陽頭が、肩を震わせた。


「あっははははははははは!!!」


ついには堪えきれず、声を上げて笑い出す。


「な、何を笑って……!」


僧が怒声を上げる。


「いやあ、見事に失敗したねぇ。カッコ悪。」


陰陽頭は涙を拭いながら続ける。


「結界を張った上で一斉に呪を放つ──考えとしては悪くないよ。だが……」


ひらり、と一枚の紙片を掲げた。


破れた護符。


「これが先に破られていては、話にならないんだなー。」


「……それは……!」


僧の顔がみるみる青ざめる。


「うん、そう。ここの結界と呪の核だ。来てすぐに見つけたのでね、破っておいたよ。」


軽く言い放つ。


だが次の瞬間、その目が鋭く細められた。


「──私はね、伊達や酔狂で、この位にあるわけではないのだよ。」


空気が一変する。


「水瓶を運び入れた者、並びに呪を唱えた者、全て捕らえよ!呪詛に及んだ大罪人どもだ!」


その声と同時に──


どこに潜んでいたのか、武装した侍たちが一斉に現れた。


あっという間に僧たちは取り押さえられる。


混乱は、一瞬で制圧された。




僧たちを取り押さえる混乱の中、紗世は惟成の袖の端をそっと引き、自分たちが乗ってきた牛車の前まで導いた。


「さっき被った水、穢れた水かもしれないの。古寺で病人の療養をしているでしょう?そこへ一度、一緒に来て。衣も洗って、熱湯で清めないと──」


紗世は小声でそう言い、惟成を見上げた。


「そうは言っても、俺だけ勝手にそちらへ行くわけにはいかん。行くなら、まず左兵衛府の者たちに報告せねばならん。」


「じゃあ、早く言ってきて。」


紗世に背を押され、惟成は本堂の方へ戻っていった。


───


惟成が本堂で報告を終えると、陰陽頭に声を掛けられた。


「惟成殿、ちょっといいかな?」


陰陽頭はそう言って、人目につかない柱の影へと惟成を呼んだ。


「“三条”という女房を知らないか?」


(紗世のことか……。だが、なぜ陰陽頭様が三条の名を知っている?)


「三条という女房をお探しで?差し支えなければ、理由を伺ってもよろしいでしょうか。」


「いや……中務卿宮様に、“騒ぎになった際には三条という女房を守り、決して傷を負わせるな”と仰せつかっていてねぇ。」


(鷹丸ではなく、中務卿宮……?)


「その肝心の三条という女房が誰か分からなくて。ここへ来た時に聞いたのだが、その時はまだ三条殿は来ていなかったようなんだ。」


陰陽頭は頭を掻きながら言った。


「そうですか。私もちょうど“三条殿”のもとへ参るところです。よろしければ、ご一緒に。」


「おお、三条殿を知っているのか。それは助かる。姫君や女房たちに聞きに回るのは、どうにも苦手でね。」


「……捕まると長いですからね。」


惟成が小さく息をついた、その時だった。


「惟成様!」


背後から声がかかる。


振り返ると、手ぬぐいを持った女房たちが四、五人、並んで立っていた。


年嵩の女房が一歩進み出る。


「大納言家の姫君様よりのお心遣いにございます。この寒い折、水をお被りになったと伺い……どうかお使いくださいませ。」


それに続くように、


「私は中納言家の──」

「私は近衛大将殿の一の姫君様の──」


と、それぞれが手ぬぐいを差し出した。


「お心遣い、痛み入ります。私は大事ございませんので、姫君方こそ本日はさぞ驚かれたことでしょう。どうかごゆるりとお休みくださいと、お伝えください。」


惟成はややうんざりした様子を見せながらも、丁寧に断った。


その隣で、陰陽頭が口元を緩める。


「いやあ……女房の危機に駆けつけ、代わりに水を被るとはねぇ…。これは、心を奪われた姫君も多いだろう。」


「……おやめください。そのようなことに興味はありませんので。」


「だよねー。惟成殿には、愛しの和泉殿がいるもんねぇ。」


「陰陽頭様、お疲れのところ恐れ入りますが、とっととお帰りを。」


惟成はそう言って、くるりと踵を返した。


「いやいや、待て待て。最後の一言、雑すぎない?

というか、三条殿と会わせてくれるって言ってたじゃないか!」


陰陽頭は慌てて声を上げる。


「……行きますよ。」


惟成は振り返らずに言い、そのまま歩き出した。


「ああ、待ってくれ。」


陰陽頭は苦笑しながら、その後を追っていった。

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