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第114話 祓いの儀

───病人が隔離されている古寺


「よしっ! 病人の汚れた衣も着替えさせたし、石鹸を溶かした水で身体も拭いて清めたし、塩を入れた薄めの甘酒も、それぞれに用意したし、この部屋の掃除も終わったし……ひと段落だね。」


紗世は、ふう、と小さく息をついた。


そこには、大納言・中納言・近衛大将、それぞれの別邸で発病した者たちが、数名ずつ横たわっている。


「三条。あちらの、一家そろって倒れた庶民の家族がいる区画も、一通り終わったようですわ。」


真砂が、若い僧からの報せを受けて告げた。


「そっか。よかった……」


紗世は頷くと、手にしていた布を畳んだ。


「じゃあ真砂、私たちも着替えて、祓いの儀式が行われるお寺へ行こう。鷹丸様が牛車を用意してくれてるみたいだから。」


そう言いながら、口元を覆っていた布を外す。


「そうですわね。……今日は鷹丸様、祓いの儀式にはいらっしゃらないのですか?」


真砂が首をかしげた。


「うん、そうみたい。どうしても外せない用があるんだって。」


「左様でございますか……。鷹丸様も祓いを受けた方がよろしいでしょうに……」


「……だよね。」


紗世は苦笑しつつ、心の中で呟いた。


(扇の呪詛、あれ絶対食らってたし……。今日、陰陽頭様も来るなら見てもらえたのに……)


小さくため息をつき、紗世は真砂とともに着替えに向かった。




───祓いの儀式が行われる寺


───ジャリ。


牛車から、陰陽頭がゆるりと降り立つ。


(……うん?)


その目が、ほんの一瞬だけ鋭く細められた。


ジャリ、ジャリ、ジャリ──


玉砂利を踏みしめながら、まるで感触を確かめるように、ゆっくりと歩く。


やがて、境内の端へと足を向けた。


「陰陽頭様? どちらへ?」


後ろから若い陰陽師が声をかける。


しかし陰陽頭は振り返りもせず、歩みを止めた。


その場で、ぐるり、と境内を見回す。


静かに。


ゆっくりと。


そして──


「……馬鹿だねぇ。」


誰に聞かせるでもない、小さな声。


指先で軽く印を結び、口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「……何でもない。行こう。」


何事もなかったかのように言い、若い陰陽師に促されて、本堂へと向かった。




本堂前の庭には、武官や各別邸の雑色、使用人たちが整然と並んでいた。


本堂の内には、大納言・中納言・近衛大将をはじめ、公達や姫君たちが集められている。


几帳の奥では、女房たちがさわさわと声を交わしていた。


「呪詛の恐れがあるだなんて……なんて恐ろしいこと……」


「当家の女房も、病に倒れましたの。」


「近衛大将のご子息も、倒れられたとか……。今は別の寺で療養なさっているそうですわ。」


「……中務卿宮様はいらしてないのかしら?」


「別邸の女房や雑色は来ているようですけれど……宮様ご自身はいらしてないわね。残念だわ。」


「今、特定のお相手もいらっしゃらないのは中務卿宮様くらいですのに……なかなかお近づきになれないのよね……。」


「中務卿宮様、源氏の君にも劣らぬご気性とお姿だとか……。魅力といえば──」


ちらり、と庭先へ視線を向ける。


「惟成様は、どこにいらっしゃるのかしら?」


「あ、いらしたわ。あそこよ。」


「まあ……あんな後ろではなく、もう少し前へ出てきてくださればよろしいのに……。」


そんな囁きが続く中──


「これより、祓いの儀式を始めます。」


低く通る声が、場に響いた。


庭先には祭壇が設けられ、(ぬさ)や榊が整えられている。


その傍らでは、僧たちが護摩の火を起こし始めていた。


陰陽頭は静かにその前へ進み出る。


他の陰陽師たちも、庭と本堂の内外に配置につき、それぞれが印を結び、低く祝詞を唱え始めた。


空気が、わずかに張りつめていく。


――祓いの儀式が、始まろうとしていた。




───祓いの儀式を行う寺・本堂へ続く廊下


紗世と真砂は、人目を避けるように、本堂脇の御簾の陰へと身を寄せた。


庭先では、祭壇の前に立った陰陽頭が、低く、絶え間なく祝詞を唱えている。


「……何とか、間に合ったね。」


紗世は小さく息を吐いた。


「ええ……何とか。」


真砂もまた、扇で口元を隠しながら頷く。


(……あ……)


ふと、紗世の視線が庭先に留まった。


(陰陽頭様だ……。お変わりなさそう……)


懐かしさが胸に広がる。


(六条御息所様のところへは、定期的に行ってくださってるみたいだけど……何か、進展とか、無いのかな……。)


ほんのひととき、場の緊張とは裏腹に、そんなことを思い浮かべてしまう。


だが──


視線を庭の端へと移した、その時だった。


(……え?)


護符の貼られた水瓶を抱えた僧たちが、列をなして現れた。


(あれ……大納言邸にもあった……。)


一瞬、記憶が繋がる。


(え……!? あの水瓶、処分させたはずじゃ……)


胸の奥が、ざわり、と騒ぐ。


(まさか……新しく用意させたの……?)


息を呑み、様子を見守る。


僧たちは、水瓶の中の水を器へと汲み、庭に集まる武官や雑色、使用人たちへと配り始めた。


祝詞の声と調子を合わせるように、静かに、しかし手際よく。


(石清水八幡宮の湧き水のあたりは、清めてもらったはず……でも……)


思考がまとまりきらない。


その間にも、水は次々と手渡されていく。


気づけば、ほとんどの者の手に、器が行き渡り始めていた。


(もし……また……)


背筋に冷たいものが走る。


(もし、あの水源に……新しく、何かが……捨てられていたら……?)


その想像に、自分でも分かるほど、血の気が引いた。


やがて、僧たちは本堂の内へと入り、几帳の奥に控える上級貴族や女房たちにも、水を配り始める。


そして──


紗世と真砂の前にも、器が差し出された。


「こちら、石清水八幡宮の霊験あらたかな清めの水にございます。」


僧は穏やかに微笑み、小声で言葉を添える。


「陰陽頭様の祝詞が終わりましたら、お口に含み、お飲みくだされ。それにて祓いは成ります。」


(……祝詞が終わったら……?)


紗世は、はっと顔を上げた。


庭先の陰陽頭を見る。


まだ、滔々と祝詞を唱え続けている。


(どうしよう……)


手の中の器が、わずかに震えた。


(祝詞が終わる前に、何とかしなきゃ……でも……)


視線を巡らせる。


庭、本堂、御簾の奥──


あまりにも多すぎる人の数。


(こんな広い範囲で……こんなに大勢……どうやって止めるの……!?)


唇を噛む。


紗世は、手元の器の中の水を、じっと見つめた。


静かに揺れる、その水面が、ひどく不気味に思えた。


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