第113話 三条への恋慕
───夜・鷹丸の部屋
(……三条殿、あれはさすがに驚きすぎであろう……。)
脳裏に浮かぶのは、呆気にとられた紗世の顔。
「……っふ」
思わず、笑みがこぼれた。
(あそこまで固まらずともよかろうに。)
くく、と布団の中で肩を揺らす。
やがて、すっと表情が落ち着いた。
(……だが)
ごろり、と寝返りを打つ。
(どの機に、正体を明かすべきか……。)
指先で畳を、トン、トン、と軽く叩く。
(幼い頃より、名を隠して過ごすことなど珍しくもなかったが……あれに対しては、少々、気が引けるな。)
ふ、と小さく息を吐いた。
(知れば……怒るか。謀ったと、騙したと。)
しばし、天井を見つめる。
(……それでも)
ゆっくりと、目を細めた。
「欲しいのだ。あの者が。」
静かな声だった。
鷹丸は、物心ついた頃から気づいていた。
周囲の者が、常に自分の顔色をうかがっていることに。
紹介される女人は、皆同じだった。
「箏の琴に秀でております」
「書は流麗にして見事」
「香の扱いも見事にございます」
どれも、非の打ちどころのない賛辞。
だが――
(……姫君たちの、区別がつかぬ。)
本心では、そう思っていた。
そんな中で現れたのが、紗世だった。
顔を隠さず、まっすぐ目を見る。
言葉は常識外れなのに、不思議と腑に落ちる。
喜怒哀楽が、そのまま表に出る。
(……面白い女人だ。)
自然と、口元が緩む。
「そういえば……三条殿は、どこの家の者だ?」
ぽつりと呟く。
「和泉国守の邸に出入りできるとなれば……ただの者ではあるまいが……」
そこまで考えたところで、
瞼が、ゆっくりと落ちていく。
「……今度、きちんと……聞かねばな……。」
そのまま、静かな寝息が部屋に落ちた。
───紗世(三条)の部屋
(どゆことどゆことどゆことーーー!!!???)
両手で顔を覆い、無音で悶絶する。
(なんで!?なんで私!?どこで!?いつから!!??)
ぐるぐると思考が回る。
(ていうか私、平安貴族のモテ条件ひとっつもクリアしてないんだけど!?)
指折り確認。
箏・琵琶 → できるが人並み、苦手意識あり
和歌 → 文は業務連絡しか書いてない
香 → むしろ病人部屋の臭いと戦ってた
(……終わってる。)
がくり、と肩を落とす。
「……ほんとに……何ひとつ、それっぽいことしてない……。」
小さく呟いた。
――が、
「……でも」
顔を少し上げる。
「今の私を見て……それがいいって、言ってくれたんだよね……。」
一瞬、頬が緩む。
……が、すぐにハッとする。
(ってダメダメ!!)
ぱちん、と自分の頬を軽く叩く。
(そもそも“三条”なんて、その場しのぎで名乗った偽名だし!!)
「……あの……三条……?」
おそるおそる、真砂の声。
「え!?あ、ごめん!どうした!?」
勢いよく振り返る。
「三条こそ……大丈夫でございますか……?」
明らかに不審そうな目。
「だ、大丈夫!!なんでもない!!」
即答。
(なんでもあるけど!!)
心の中で叫ぶ。
「それより、三条に文が届いておりますよ。」
「え?」
一瞬止まり――
すぐ顔が明るくなる。
「惟成でしょ!?当たり!?」
「ええ。」
くすりと真砂が笑う。
文を受け取り、丁寧に開く。
「……うわ」
顔がしかめられる。
「書き出しが“無茶しておるまいな。しているのだろうが”って何それ……。」
「まあ……よく分かっておいでですね。」
「否定できないのが悔しい……。」
ぼそり。
そのまま読み進める。
「……また宇治に来るって。」
「お仕事で?」
「うーん……祓いの儀式だって。関わった人まとめて。」
その瞬間。
紗世の動きが止まる。
「……陰陽頭様も来るって。」
「まあ。」
真砂が目を丸くする。
「紗世様が時々文のやり取りをされていた……?」
「そうそう。」
さらに読み進め――
ぴたり、と止まる。
「……話す機会作れるかって……陰陽頭様も同席させていいかって……。」
文を持つ手が、少し下がる。
(……やばくない?)
脳内で警報。
(呪詛前提の人に、衛生の話ぶつけたら揉めるやつじゃん……?)
しかし――
ふ、と息をつく。
(でも、あの人なら……
ちゃんと話、聞いてくれるはず。)
そして、ふと思い出す。
(あ!それと……宮様と鷹丸様の扇…を…)
――その瞬間。
顔が、じわっと赤くなる。
「……紗世様?」
真砂が覗き込む。
「な、なんでもない!!」
ぶんぶんと首を振る。
「惟成が来たら、ゆっくり話したいから……ちょっと鷹丸様にうまく言ってもらうかも!」
「それは構いませんが……本当に大丈夫でございますか?」
「だ、大丈夫!!」
(全然大丈夫じゃないけど!!)
心の中で叫びながら、
紗世はぎこちなく笑った。
───翌日、陰陽寮へ続く渡殿
渡殿を進んでいた陰陽頭の背に、声がかかった。
「陰陽頭殿!」
呼び止められ、振り返る。
そこに立っていたのは──中務卿宮であった。
「これは……中務卿宮様。ご無沙汰しております。」
陰陽頭はすぐに頭を下げる。
「うむ、久しいな。」
宮は軽く頷くと、懐に手を入れた。
「陰陽頭殿に、見てもらいたいものがある。」
取り出されたのは、一柄の扇。
ハラリ、と音を立てて開かれる。
その瞬間──
陰陽頭の目が、すっと細められた。
「……宮様。この扇は……」
言葉を選ぶように、一瞬間を置く。
「どなたからお受け取りに?」
声音がわずかに低くなる。
宮はそれを見て、静かに言った。
「やはり分かるか。……呪詛が、かけられておるのだろう?」
「……左様にございます。」
陰陽頭は扇から目を離さず答えた。
「お気付きでしたか。」
「ああ。とはいえ、最初に違和感を覚えたのは私ではない。」
宮はわずかに息を吐く。
「とある女房がな。この扇に妙な気配がある事に気付いたのだ。」
「……女房が。」
陰陽頭の眉がわずかに上がる。
「それはまた、目の利く者ですな。」
「であろう?」
宮は軽く笑い、すぐに本題へ戻る。
「陰陽頭殿。この扇──呪詛をかけた者を辿れるか?」
「少々お時間をいただければ、可能にございます。」
「そうか。ならば頼む。」
宮は一歩、距離を詰めた。
「……それと、もう一つある。」
陰陽頭は、内心でため息をつく。
「……何でございましょう。」
宮はにこりと笑った。
「面倒事が嫌いなのは知っておるが──引き受けてくれ。」
「宮様の頼みとあらば、面倒などとは……」
(なんでバレてるんだ……)
心中でぼやきつつ、表情は崩さない。
宮は満足げに頷いた。
「近く、宇治の祓いの儀式へ行くのだろう?」
「ええ。」
「その前に──石清水八幡宮の水源を祓ってほしい。」
「水源を……?」
陰陽頭の目がわずかに鋭くなる。
宮は静かに続けた。
「結論から言う。宇治で起きている病──あれは穢れた水によるものだ。」
「……水、でございますか。」
陰陽頭の声に、わずかな興味が混じる。
「先ほどの女房がな。各邸を見て回り、気付いたのだ。」
「何に、です?」
「病が出た邸に、共通するものがあると。」
一拍。
「石清水八幡宮の水だ。」
陰陽頭の表情が変わる。
「……その水を口にした者が倒れた、と。」
「そういうことだ。」
宮は頷く。
「そこで調べさせた。」
声がわずかに低くなる。
「水源付近に──動物の死骸が捨てられていた。」
「……!」
「それだけではない。」
宮はさらに続ける。
「病で死んだと思しき庶民の遺体も紛れておった。」
陰陽頭は静かに息を吐いた。
「……穢れを流し、広げたわけですか。」
「加えて──」
宮の目が冷たくなる。
「その水を“霊験あらたか”と触れ回った僧がおる。」
「……意図的に、ですか。」
「可能性は高い。」
短い沈黙。
宮はゆっくりと口を開く。
「病が出た邸を思い出せ。」
「……中務卿宮、大納言、中納言、近衛大将……」
陰陽頭が並べた瞬間──
表情が変わる。
「……これは。」
宮は静かに頷いた。
「先の東宮──第一皇子に連なる家門だ。」
空気が張り詰める。
「……右大臣一派の仕業、と。」
「その可能性が高い。」
宮は淡々と答えた。
「宇治での祓いの儀式。連中にとっては好機だ。」
「標的が一堂に会する……」
「そういうことだ。」
陰陽頭は小さく息を吐く。
「……大捕物になりますな。」
「だが――」
宮は肩をすくめる。
「私は行けぬ」
「……は?」
珍しく間の抜けた声。
「宮中で用がある。」
「……なるほど。」
じとっとした目。
「全部、私にやれと」
「何を言う。」
即答。
「そなたにしか任せられぬ。」
「便利に使われておりますなあ。」
「そう言うな。」
ふっと笑う。
(……私が行けば、三条殿に正体が知れる。)
視線を外す。
陰陽頭が応じると、宮はふと思い出したように言った。
「それと、もう一つ。」
「……まだございますか。」
陰陽頭は露骨に嫌そうな顔をした。
宮は楽しげに笑う。
「先ほど話した女房だがな。」
「ええ。」
「祓いの場にも来るはずだ。」
宮の声が、わずかに柔らかくなる。
「万が一、大捕物となった場合──あの者に危害が及ばぬようにせよ。」
一拍置き、
「……傷一つ、負わせるでない。」
陰陽頭は、じっと宮を見た。
(ただの女房にしては、随分と入れ込みようだな……)
「承知いたしました。」
静かに答える。
宮は満足そうに頷き──
最後に、何気なく言った。
「ああ、女房の名は……三条という。」
陰陽頭の目が、わずかに細められた。
(……三条…か。)
宮は微笑み、そのまま踵を返した。




