第111話 石清水八幡宮の湧水
──翌日
同じような病の者が出たという貴族の邸に、紗世たちは訪れていた。
紗世はまず、水回りと台盤所の様子を見に向かった。
(あれ……?あれは確か、大納言邸にもあった……)
ふと目に留まったのは、水瓶だった。
その水瓶には、護符のようなものが貼られている。
「あの……あの水瓶、なぜ護符のようなものが貼ってあるのですか?
大納言邸でも見かけた気がするのですが、この辺りの習わしなのでしょうか?」
紗世が問うと、邸の者が口を開く前に鷹丸が答えた。
「あれは石清水八幡宮の霊験あらたかな水だ。
近頃、八幡宮の霊力が強まっていると僧が申してな。
そのまま飲み水として用いるのが良いとされている。中務卿宮様の別邸にも置いてある。」
紗世の目が見開かれた。
「あのっ……すみません!先に次の邸へ行ってもらってもよろしいですか!?
確かめたいことがあるのです!」
突然の勢いに、鷹丸と真砂は顔を見合わせる。
だが鷹丸は、紗世が何かに気づいたと察した。
「……分かった。すぐに行こう。」
三人は慌ただしく、次の邸へと向かった。
──別の貴族邸
紗世は、水瓶に貼られた護符を見て小さく呟いた。
「もしかして……」
そして振り返る。
「あの、一家皆が同じような病に伏せたという庶民の家は、どちらにありますか?」
「石清水八幡宮の近くだ。
湧き水の汲み場のすぐ傍でな。水を汲みに来る貴族の使いの者とも顔見知りであろう。」
(同じ病の者が出た邸、全部にこの水がある……。)
紗世ははっと顔を上げた。
「この石清水八幡宮の水の飲用を、しばらくお控えください!
先ほどの邸と大納言邸、それから中務卿宮様の別邸にも、すぐにお伝えを。
もし他にもこの水を使っている邸があれば、同じようにお願いいたします!」
「八幡宮の霊験あらたかな水だぞ……?」
鷹丸は困惑した様子で言う。
「断じることはできません。ですが、確かめがつくまでの間だけでも……。
その方が安全かと存じます。」
そう言ってから、紗世は鷹丸に向き直った。
「それから鷹丸様。至急、確かめていただきたいことがございます。」
──内裏・陰陽寮へ続く渡殿
渡殿には人の気配が少なく、風がすうと通り抜けていく。
その廊下の途中で、惟成は声をかけられた。
「やぁ、惟成くん。久しぶりだねぇ。」
振り返ると、そこには陰陽頭が立っていた。
「陰陽頭様、お久しぶりにございます。」
軽く頭を下げる。
「和泉殿が里に下がってから、君は六条邸にあまり来なくなったねぇ。」
どこか懐かしそうな声音だった。
「私は源氏の君より、六条御息所様ではなく和泉殿の護衛を任されておりましたので。
和泉殿が里に下がれば、足も遠のきます。」
「そうかそうか。
私は一応、今も六条邸には顔を出してるよ。身分ある方はね、何もしてなくても妬まれるから。」
「それの予防、でございますか。」
「そういうこと。」
少しの間、風の音だけが通り過ぎる。
「そうそう。惟成くん、先日宇治に行ったって?」
「はい。大納言様の護衛選抜にて、試験官を務めました。」
「宇治、今ちょっと嫌な噂あるよねぇ。呪詛がどうとか。
何か変わったことはなかったかい?」
(紗世のこと……どうする?)
三条と名乗り、中務卿宮の別邸にいること。
石鹸なるものを広めていること。
一瞬で考えが巡る。
「どうしたんだい?腹でも下したかい?」
陰陽頭が惟成の顔を覗き込んだ。
(…………言うのはやめよう。)
「いえ、これといって、変わったことは。」
「うーん。そうかぁ。
やっぱり私が直接宇治行かないとダメかなあ……行きたくないなー。めんどくさいなー。」
「陰陽頭様。」
「なんだい?」
「病というものは、呪詛で広がるものなのですか。」
「まあ、そうだね。一般論では。」
「一般論では……?一般ではない陰陽頭様はどうお考えで?」
「……惟成くん、私のこと嫌い?」
「ギリ、嫌いではないです。」
「あとちょっとで嫌いなんじゃん。」
「それで?陰陽頭様は、呪詛ではない病もあると?」
「重い病とか、次々倒れるやつはね、立場上“呪詛”って言うこと多いけど……」
「多いけど?」
「呪詛の気配、全然しないこともよくある。」
惟成の目がわずかに細まる。
「陰陽頭様は、人の想いを感じ取れるのですか。」
「ああ。人の想いは気配として感じるよ。
この世のものじゃないやつもね。姿も、思念も。」
「その気配が、病の場では感じられないこともある、と。」
「そうそう。
でもさ、それだと原因わかんないでしょ?人はわからないもの怖がるから。
だから、呪詛ってことにしておくの。説明がつくから。」
「……やはり、陰陽頭様は陰陽頭なのですね。」
「ねえ、ほんとに私のこと嫌ってない?」
「ギリ、大丈夫です。」
──左兵衛府
惟成が役所へ戻ると、門をくぐって間もなく声が飛んできた。
「惟成!」
振り向くと、上官の菅原が立っていた。
「戻ったか。ちょうど良い。宇治の任に関わった者を集めている。お前も来い。」
「はっ。」
短く応じ、惟成はその後に続いた。
奥の一室には、すでに数名の武官が集まっていた。
顔ぶれは見覚えのある者ばかり——先日の宇治の任で共に動いた面々だ。
「揃ったな。」
菅原が見渡し、口を開く。
「話は早い。お前たちには、もう一度宇治へ向かってもらう。」
「……再び選抜試験、というわけではなさそうですね。」
一人の武官が口を挟む。
菅原はわずかに顔を歪めた。
「違う。あの後だ。宇治で、再び病で倒れる者が出た。」
室内の空気がわずかに張り詰める。
「しかもだ。倒れたのは一つの邸ではない。中納言様の別邸、近衛大将様の別邸——いずれも上級の家だ。」
惟成の肩が、ぴくりと動いた。
(……あの日、紗世と鷹丸とやらが向かった先か。)
「加えて——」
菅原は一拍置いた。
「中務卿宮様、大納言様の別邸でも、同様の病が出ている。」
ざわり、と低くざわめきが走る。
「これは……ただ事ではありませんな。」
「ああ。」
菅原は頷いた。
「陰陽寮にもすでに話が上がっている。呪詛の可能性が高いとして、宇治で祓いの儀が行われる運びとなった。」
(……やはりか)
惟成は内心で息をつく。
(陰陽頭様が“面倒だ”と言っていたのは、これだな。)
「そこでだ。」
菅原が視線を巡らせる。
「お前たちにも、その祓いを受けてもらう。大納言様の別邸に出入りしていた以上、無関係とは言えぬ。」
「我らも、ですか。」
「念のため、だ。穢れは目に見えぬからな。」
「……承知しました。」
各々が低く応じる。
その中で、惟成だけがわずかに視線を落とした。
(再び、宇治に行けるのか……)
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
(——あいつに、会える)
だが、すぐにその熱は別の感情に押し流された。
(……いや)
惟成は目を細める。
(あいつはまた、無茶をしてはおるまいな……)
一瞬の間。
(……しているな。)
小さく息を吐いた。
「詳細は追って沙汰が出る。それまで各自、備えておけ」
「はっ!」
声が揃う。
惟成はその場を辞しながら、ふと外へ目をやった。
薄く広がる空。
(文を送るか。)
歩きながら、思う。
(向こうで……少しは落ち着いて話せればいいが)
だが——
脳裏に浮かぶのは、あの無茶な顔。
(無理だな。)
わずかに口元が緩んだ。
そしてすぐに、表情を引き締める。
(……宇治か。)
静かに、歩を進めた。




