第110話 中務卿宮の病、宇治の病
大納言家の護衛候補者の選抜が終わり、候補者や試験官たちはそれぞれ帰り支度をしていた。
惟成は厩で馬の支度を整えていた。
そのときだった。
一騎の馬が、砂を蹴立てて慌ただしく駆け込んできた。
乗っていた男は、馬が止まるや否や飛び降りると、手綱を放り、そのまま邸内へと駆け出す。
(誰だ……?)
惟成は眉をひそめた。
(大納言様たちは、すでに都へ戻られたはずだが……)
そう思案した直後——
「三条殿! 三条殿はいるか!」
邸内へ響く声。
(……三条?)
一瞬の間。
(紗世のことか……!?)
惟成ははっと顔を上げた。
(なぜ、あいつの名を——)
考えるより先に、体が動いていた。
帰り支度もそのままに、惟成は男の後を追った。
──大納言家別邸内
門の内では取次の者が慌てて制止していた。
「お待ちください! 取り次ぎを——」
だが男はそれを振り切り、そのまま奥へと進む。
「三条殿! 三条殿はいるか!」
その声に応じて、台盤所から紗世が顔を出した。
「鷹丸様? どうされたのです? そんなに慌てて……」
口元の布を外しながら問いかける。
鷹丸の表情は明らかに険しい。
「この近辺の邸で、病に倒れた者が出た。」
息がわずかに上がっている。
「ひとつではない。いくつかだ。」
「いくつか……?」
紗世の顔色が変わる。
「ああ。貴族の邸が二つで貴族が二名と三名。雑色や使用人も四~五人。それに、庶民の家で一家六人が倒れた。」
(……広がってる)
紗世の胸がざわつく。
(邸だけじゃない……水……?それとも——)
「とにかく、来てくれ!」
鷹丸が紗世の腕を掴んだ。
その瞬間——
「お待ちください。」
低い声が場を制した。
振り返る。
惟成が立っていた。
「惟成……」
紗世が小さく呟く。
惟成と鷹丸、二人の視線が正面からぶつかる。
((誰だ、こいつ?))
互いに、同時にそう思った。
惟成の視線が、紗世の腕を掴む手へと落ちる。
静かに見極める。
だが、胸の奥にわずかなざらつきが残った。
「女房殿を、病が広がっている場所へ連れ出すとは。いかがなものか。」
静かな声音だが、はっきりとした制止だった。
「私とて、好んでそのような場へ連れていくのではない。」
鷹丸も一歩も引かない。
「だが、この者でなければ手に負えぬ。」
空気がぴんと張り詰める。
紗世は慌てて二人の間に割って入った。
「わ、私は……病に対処するために来たのですから、大丈夫です。」
視線を上げ、まっすぐに言う。
「ですので……行かせてください。」
一歩も引かないその様子に、惟成はわずかに目を細めた。
(……まただ。こいつは、こういうところへ躊躇なく踏み込む。)
止めるべきだと分かっている。
だが——
(止めても、行く。)
それも、分かっていた。
紗世は鷹丸の背を軽く押す。
「鷹丸様、案内を。」
(ごめん、惟成。後でちゃんと説明するから。)
一瞬だけ視線を送り、目で合図する。
惟成は何も言わなかった。
ただ、二人の背をじっと見つめていた。
「……あれが、鷹丸か。」
低く、誰にも聞こえぬ声で呟く。
その目には、わずかな警戒と——
言葉にしない感情が宿っていた。
───中務卿宮別邸・夜
明日は、まず病人の出た二つの貴族邸へ赴く。
そのための準備を終え、紗世はようやく一息ついた。
あれから鷹丸と共に訪れた邸には、大納言邸で余った石鹸を渡し、こまめに手を洗うよう言い含めてきた。
家族全員が倒れた庶民たちは、すべて古寺へと運ばせている。
「もしかして、宇治全体に広がり始めてる……?だとしたら、もう、これを繰り返していくしか……。」
「果てしない、ですわね。」
紗世と真砂は、同時にため息をついた。
コンコン、と柱を叩く音がする。
「三条殿、少し良いか。」
鷹丸の声だった。
「鷹丸様。どうぞ。」
紗世が応じると、簾の向こうで気配が動く。
「すまぬが、真砂殿。少し外してもらえるか。」
「え?……はい。」
真砂は一礼し、静かに部屋を出ていった。
その気配が遠ざかるのを待って、鷹丸は紗世へ向き直る。
「して、三条殿。この一連の騒動にて——人ならぬ業と思しきもの、何か感じたか。」
紗世はわずかに首を傾げた。
「確かに、次々と人が倒れるのは不気味ではありますが……。」
少し考え、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「やはり、呪詛とは思えません。広がり方に筋が通っておりますし、対処すれば収まり、病の者も回復しておりますので。」
「ふむ……そうか。」
鷹丸は小さく頷いたが、その表情は晴れない。
「何か、気になることでも?」
紗世が問うと、鷹丸は一瞬ためらい、やがて口を開いた。
「……肝心の中務卿宮様のご様子がな、あまり芳しくないらしい。」
「宮様が? それは、いつ頃から……どのような?」
「普段はお変わりない。だが、ある日ふと崩れるのだ。気力が落ちるというか……何も手につかぬような様子でな。」
「熱は? お腹を下すようなことは?」
「それは無い。」
「……それは、今の病とは別ですね。」
紗世はあっさりと言い切った。
「違うのか?」
「少なくとも、同じものではありません。」
そう言いながら、紗世は思考を巡らせる。
(同じ病なら、同じ経過を辿るはず。
でも宮様だけ違う。
熱もない、腹も下していない。
なのに、衰え方だけが目立つ。
しかも……日によって揺らぎがある。
感染り病で、こんな崩れ方はしない。
……となると、外から、何かが作用している可能性。
それが——呪詛か、それとも別の要因か。)
「ただ……それが呪詛によるものか、病によるものかまでは、まだ判断できません。」
「病であれば、呪詛によって引き起こされたものではないのか?」
鷹丸の言葉に、紗世は小さく唸った。
(この時代は、何でも呪詛に結びつける……。
それを否定しきれないのが、また厄介なんだけど。)
「……可能性は、否定できません。」
そう答えるしかなかった。
「しかし、宇治で流行っている病と宮様の体調不良は、別で考えた方がよろしいかと。」
「そうか……。」
鷹丸は小さく息を吐いた。




