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第109話 束の間の再会

───大納言邸・台盤所


紗世は、もし再び倒れる者が出た時に備え、甘酒に塩を加えた飲み物の作り方を説明していた。


「──ですので、腹を下して熱があるようでしたら、こちらを。身体を助けるものです。ええと……“祓いにもなる”と思っていただければ」


(もうこの言い方で押し切るしかないよね……。)


と、その時。


「三条殿、石鹸の余りはありますか?」


入口から声がかかった。


「あ、はい。……あれ?」


手元を見て、ぴたりと動きが止まる。


「……無い。すみません、部屋にありますので取ってきます。どなたが?」


「こちらの武官様が、もう一つ欲しいと。」


「かしこまりました。少々お待ち──」


顔を上げた瞬間、言葉が消えた。


(……うそでしょ。)


惟成だった。


布で口元を覆っているとか、そういう問題ではない。


視線が合う。


次の瞬間。


がしっ。


腕を掴まれた。


「あ……あの……武官様……?」


(終わった。)


惟成は一瞬、我に返ったように目を伏せた。


「ああ、すまぬ。急いでいるのでな。部屋まで共に行こう。案内してくれるか、“三条殿”」


にこり、と柔らかな笑み。


(怖い怖い怖い怖い怖い!!!)



廊下を歩く。


逃げ場はない。


背後から、逃げ場のない圧が追ってくる。


(なぜお前がここにいるのだ。なぜ三条なのだ。そもそもお前は和泉国にいるはずだろう。何のために里へ下がったと思っているのだ。しかも宇治にいるとは何を考えている。まさか石鹸とやらはお前が関係しているのか。どうなっているんだ)


言葉にされていないのに、はっきりと伝わってくる気がした。


紗世は視線を落としたまま、ただ歩いた。




部屋に入ると同時に、紗世は几帳の裏へ回り込んだ。


(と、とりあえず石鹸……!)


荷を探り、ようやくそれを掴む。


「こちら……でございます……」


両手で差し出す。


そのまま、手ごと掴まれた。


(あ、詰んだ。)


「お前、なぜここにいる」


低く、抑えた声。


「……人違いでは……?」


口元の布が外された。


「人違いか?それにしてはよく似ているな。」


「世の中には似た者が三人は──」


「紗世。」


ぴしゃりと遮られる。


肩がびくりと震えた。


「……病の広がりを抑えるために、来ました。」


「病?」


「……はい。」


「では、この石鹸もお前絡みか。」


「……私が作りました。」


「はあ!?」


惟成は天井を仰いだ。


「何をしているんだ、お前は。」


「……」


「自分の立場が分かっているのか。」


「……」


「呪詛が効かぬと噂されて都を離れた身で、今度は“祓う物”を作るだと?」


紗世の肩が小さく震えた。


「……何よ。」


「何だと?」


「何でそんなに怒るのよ。」


「無茶をするからだろう!」


「私だって一回は断ったもん!」


「ならばなぜ来た!」


沈黙。


紗世は俯いたまま、小さく呟いた。


「……会えるかもって思ったの。」


「……何?」


「宇治って聞いて……惟成が、宇治で仕事だって……文に……」


惟成の動きが止まる。


「……会えるかもって……思ったんだもん……。」


ぽろ、ぽろと涙が落ちた。


静寂。


やがて惟成は、ゆっくりと息を吐いた。


「……すまん。」


袖で涙を拭う。


「事情も聞かずに責めた。」


紗世は黙って頷いた。


「……元気だったか。」


「うん。」


「傷は?」


「治った。」


「痕は?」


「残ってない。」


「そうか。」


少しの間。


紗世は顔を上げた。


「……背、伸びたね。」


「ああ。」


「さっき見た。強くなったね。」


「ああ。」


「……モテてるね。」


「それは知らん。」


一拍。


「……ふふっ」


「……はは」


同時に笑いがこぼれた。


張り詰めていた空気が、ふっとほどける。


「詳しくはまた聞く。ここでは無理だ。」


「うん。」


「宇治にはいつまでいる?」


「あと半月くらい。」


「どこにいる?」


「中務卿宮様の別邸。」


「……は?」


一瞬、固まる。


「……中務卿宮!?」


「私もよく分からないんだけど、鷹丸様って人が側近みたいで。」


「鷹丸……官位は?」


「知らない。でも絶対えらい人。」


「雑だな。」


「だってはぐらかされるんだもん。」


惟成は小さく息をついた。


「……“三条”なのだな。」


「うん。」


「分かった。」


背を向ける。


「宇治にいる間に文を送る。」


「うん!」


ぱっと顔が明るくなる。


「全部話してもらうからな。」


「え。」


一瞬で青ざめた。


「またな。」


そう言って石鹸を手に取り、惟成は部屋を出ていった。


しばらくして。


「……はあああああああああああああああああ!!!」


紗世はその場にへたり込んだ。


「……怖かったぁ……。」


小さく息をつく。


「……でも……」


ふっと口元が緩む。


「……へへ。」


頬が熱い。


惟成が触れた目元に、そっと手を当てた。




───大納言邸・控えの間


選抜試験はまだ続いていたが、惟成は一人、控えの間に戻っていた。


人の気配はない。


静かだ。


ふぅ、と一息つき、腰を下ろす。


(呪詛との噂はあったが……今の所、なにも問題はないようだな。)


そう思いながら、ふと視線を落とす。


手の中にある、小さな包み。


石鹸。


(……石鹸、か。)


指で転がす。


(紗世が、これを作ったのか……。)


ぴたり、と手が止まった。


「…………」


沈黙。


次の瞬間。


「……はあぁ……」


深く息を吐く。


そのまま、顔を覆った。


「……何をしているんだ、あいつは……。」


呟く声は呆れ混じり。


しかし——


(会えるかも、と思った……か。)


その言葉が、頭の中で繰り返される。


「……っ」


ぎゅっと、手に力が入る。


「……そんな理由で……来るな……。」


そう言いながらも、声に力がない。


(……いや、来るな、ではないな……来るな、では……)


言葉が途切れる。


沈黙。


やがて、ぽつりと零れた。


「……来たのか。」


そのまま、しばらく動かない。


そして——


「……っはあああ……」


再び深く息を吐き、天井を仰ぐ。


「……会えるかも、か……」


口元が、わずかに緩んだ。


「……馬鹿だな……。」


どちらに向けた言葉かは分からない。


手の中の石鹸を見つめる。


(あいつが、作ったもの……。)


指先でそっと撫でた。


ふ、と笑みがこぼれる。


「……無茶をするなと陰陽頭様からも言われただろうに。」


だが、その声はどこか柔らかい。


しばしの沈黙。


やがて惟成は立ち上がった。


「……文を出すか。」


ぽつりと呟く。


「……全部、聞かねばならん。」


そう言いながらも——


その足取りは、わずかに軽く、再び仕事の場へ戻って行った。


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