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第108話 護衛候補選抜試験 IN 大納言別邸

───大納言家別邸内


カァンッ!!!


「そこまで!やめよ!!!」


遠く庭先から鋭い声が響き、紗世は顔を上げた。


(護衛候補者の選抜……もう始まってたんだ。)


紗世は台盤所で真砂と共に、煮沸や酒を用いた清めを行っていた。


今日は鷹丸は外せぬ用があると、都へ戻っている。


「三条殿。こちらは熱湯での清めが終わりましたが……こちらは、どこへ置けばよろしいでしょうか。」


「それは……外に出して、陽の光に当てて乾かしていただけますか。」


「陽の光、でございますか?」


「ええ。陽の光にも、穢れを祓う力があると聞いております。」


紗世は穏やかに答えた。


(“消毒”なんて言っても分からないよね。祓いとか清めって言った方が早いか。)


「とりあえず、今のところはここまでで大丈夫かと思います。少し休みましょうか。」


「はい。」


「真砂、一度部屋へ戻ろう。」


そう言って、二人は廊下へ出た。


渡り廊下を進んでいると——


「そこの者。」


背後から声がかかった。


振り返ると、大納言家本宅から来ているらしい女房が立っていた。


「姫様方が菓子を所望されている。奥の間へ持って参れ。」


(……説明するのも面倒だな。)


「かしこまりました。」


紗世は素直に頭を下げた。


再び台盤所へ戻ると、使用人たちが不思議そうに顔を上げた。


「三条殿、真砂殿、いかがなさいました?」


「奥の間の女房殿に、姫君方の菓子を頼まれまして。」


「ああ。本日は大納言家の姫君三人と、中納言家の姫君二人が見学に来ておられますので。」


使用人は頷き、手際よく菓子を用意した。


(選抜試験って、若い殿方が集まるし……そりゃ見に来るよね。)


紗世は腕を組み、ふと天井を仰ぐ。


(試験官側も出世頭ばかりだろうし……完全に品定めの場だな。)


用意された菓子を持ち、奥の間へ向かう。


近づくにつれ、姫君たちの声が廊下にまで漏れてきた。


「先ほどの方、お顔が整っていらしたわよね?」


「そうかしら?私は二番目の方の方が良かったと思うわ。」


「強くても、お顔がね……。」


言いたい放題である。


(……自由だなぁ。)


紗世は呆れつつも、菓子を側仕えの女房へ差し出した。


そのときだった。


「あ!次の試験官……惟成様よ!!」


「本当!?」


「もう、試験官は惟成様だけで良いわ。他の方は少し物足りないもの。」


「惟成様、一番お強いわよね。今日はまだ一度も負けていないわ。」


紗世の肩が、ぴくりと震えた。


(惟成……!?)


ゆっくりと、庭先へ視線を向ける。


そこにいたのは——


見慣れたはずの横顔。


けれど。


(……あ……)


以前よりも引き締まり、鋭さを増した立ち姿。


振るわれる木刀は無駄がなく、流れるように相手の攻撃を受け流していく。


(強く……なってる……。)


大柄な相手が力任せに打ち込む。


だが惟成はそれをいなし、わずかな隙を逃さず——


鋭く打ち込んだ。


相手の手元が弾かれ、木刀が宙を舞う。


「そこまで!やめよ!!」


「きゃーーっ!素敵だわ!」


奥の間から歓声が上がる。


(惟成……!見えた……見れた……!)


胸が締めつけられる。


視界が、にじむ。


「どうしたの?もう下がりなさい。」


側仕えの女房に促され、紗世は慌てて頭を下げた。


廊下へ戻り、数歩進んだところで——


思わず足を止める。


もう一度だけ、と振り返る。


「紗世様……?」


真砂が小さく呼びかけた。


「惟成だ……。」


「え……!?惟成様……あの方が……?」


真砂も庭先を見る。


そこには、先ほどの勝負の余韻を残したまま立つ若者の姿。


「あんなに大きな相手に……本当にお強いのですね。紗世様が仰っていた通りですわ。」


「うん……うん……!」


紗世は頷いた。


「惟成は、本当に強いんだから……昔から……ずっと……」


こぼれそうになる涙を、そっと拭う。


しばらく見つめていたが——


やがて、小さく息を吐いた。


「……さ、真砂。戻ろう。」


「はい。」


惟成の姿を、ほんの一目。


それだけで——


これまでの不安も、疲れも、すべてが少し軽くなった気がした。





───大納言邸・樋殿


(これは……?)


惟成が樋殿に入ると、脇に書き付けが置かれているのに気づいた。


『御用の後は、この灰をおかけ下さるように』


傍らの木桶には、灰と紙くずを混ぜたものが入れられ、大きな匙が差し込まれている。


樋殿の穴を覗けば、すでに灰がかけられた跡が見て取れた。


(なるほど……これも“祓い”の一つ、ということか。)


惟成は静かに周囲を見回す。


(……多少ではあるが、臭いが和らいでいるな。この灰のためか。)


わずかに思案する。


(もしそうなら、当家でも取り入れてみてもよいかもしれぬ。)


用を足し終え、外へ出ると水桶が据えられていた。


(手を清めるのだったな。)


懐から石鹸を取り出し、水で手を濡らして擦り合わせる。


ぬるりとした感触のあと、粗い泡が立ち上る。


そのとき——


バシンッ!


不意に背を打たれ、手から石鹸が落ちた。


振り返ると、同じく試験官として来ている同僚が、にやにやと笑っている。


「源殿は、相変わらず生真面目よな。そのようなもので手を洗ったところで、何になる。」


「……大納言家の定めであれば、それに従うまでのことだ。」


淡々と返す。


「いちいち手を洗うなど、誰も見ておらぬぞ。」


同僚は肩をすくめ、顔を寄せてくる。


「……それとも、呪詛が怖いか?」


「……」


惟成は何も答えず、静かに相手を見据えた。


「そうか、怖いか。お主、二年ほど前に呪詛の件に巻き込まれていたな。」


「……」


なおも沈黙を貫く。


「何とか言ったらどうだ?」


苛立ちを含んだ声。


惟成は、わずかに視線を外し——


静かに口を開いた。


「……今は、任を果たすのみだ。」


その声は低く、揺らがない。


同僚は一瞬言葉を失い、やがて顔を赤くした。


「……ふん!」


悔し紛れに、惟成の胸を強く突く。


だが惟成は一歩も引かない。


「騒ぎを起こすな。ここは大納言様の別邸だ。我らは任の最中だぞ。」


冷ややかな一言に、同僚は舌打ちをし、その場を去っていった。


静けさが戻る。


惟成は足元に落ちた石鹸へと視線を落とした。


(……落としてしまったか。)


しばし見つめる。


(この後も食事や用がある。新たなものを頂けるか、聞いてみるか。)


そして、ふと先ほどの感触を思い返した。


(……“せっけん”とやら、無駄ではなさそうだな。)


そう小さく胸中で呟き、惟成は静かにその場を後にした。

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