第107話 交錯する呪詛?病?大納言邸!
紗世は再び布で口と鼻を覆い、運ばれてきた男へと歩み寄った。
「どのような症状が出ていますか。痛むところは?」
「ぅ……腹が……痛え……。下してる……尻から血も……。それに……身体が熱い……苦しい……」
(……同じだ。)
これまでの者たちと、ほぼ同じ症状。
紗世は男の衣に目を向けた。
吐瀉物と思しき汚れが、乾いてこびりついている。
「洗い清めた衣を持ってきてください。この方を着替えさせます。」
その言葉に、男を運んできた使用人たちが顔を見合わせた。
「で、では我々は——」
「お待ちください!」
紗世の声が、ぴたりと場を止めた。
「真砂、ここは任せてもいい?今までと同じようにお願い。」
「え……三条は、どちらへ?」
「大納言邸へ参ります。」
「三条殿!?」
鷹丸が思わず声を上げた。
「この方が大納言邸から来たのなら——あの邸に原因がある可能性が高いのです。」
紗世は静かに言う。
「この方を回復させても、元を断たなければ、また同じことが起こります。」
「呪詛で、広がっているのでは……ないのか?」
鷹丸の声が揺れる。
「いいえ。」
きっぱりと否定した。
「呪詛ではありません。ですが、このままでは病は広がります。」
そして一歩踏み出す。
「明日から人が増えるのでしょう?今なら、まだ間に合います。」
戸板を担いでいた男の顔が青ざめた。
「つ、つまり……邸に、何かが残っていると……」
(だから呪詛じゃないってば……!)
胸の内で叫びつつも、紗世は押し切った。
「明日、邸には何人ほど集まるのですか?」
「二十……多くて三十ほどかと……」
紗世はすぐに振り返る。
「鷹丸様。一度邸へ戻り、準備を整えます。」
「三条殿、私も行こう。」
数刻後——
大納言の別邸の前に、牛車が止まった。
出迎えに現れた古参の女房は、鷹丸の顔を見るなり目を見開いた。
「え……なかっ——」
鷹丸はすっと指を口元に当てる。
「あ……鷹丸様。お久しゅうございます。」
「久しいな、小萩殿。」
「祓いの者が来ると聞いておりましたが……」
「私ではない。こちらの三条殿だ。それに、祓いではない。」
紗世へと視線を向ける。
「祓い……ではないのですか?」
「はい。呪詛ではないと思われます。
これ以上、倒れる者が出ぬよう手を打ちに参りました。」
紗世は深く頭を下げた。
「……承知いたしました。ご案内いたします。」
邸へ入るや否や、紗世は迷いなく動いた。
まず向かったのは、台盤所。
水桶、まな板、調理具、布巾——
(やっぱり、水回り……だよね。)
次に樋殿。
湿った地面、残された汚れ。
目を細める。
「これらはすべて、一度熱湯で清めてください。」
調理具や布類も同様に。
さらに、樋殿の脇に灰と紙屑を混ぜたものを置かせる。
「用を足した後、この灰を被せてください。」
次々と指示が飛ぶ。
誰もが戸惑いながらも、その迫力に押されて動いた。
日が傾く頃には、邸の様子は大きく変わっていた。
「明日、ここに入る方々のために石鹸を用意いたします。」
紗世は振り返る。
「明日もう一度、参ります。」
邸の者たちは、ただ頷くしかなかった。
呪詛ではない。
それでも、確かに“何か”が変わり始めている——
そう感じていた。
──翌日、大納言家別邸
朝から多くの人で賑わっていた。
「皆様、邸内に入られる前に、まずはこちらへお寄り下さい。」
門をくぐるとすぐ脇に、大きな桶がいくつも並べられている。
その前に使用人たちが控え、訪れる者に一つ一つ説明をしていた。
「これを手で擦り合わせるようにして下さいませ。」
差し出されたのは、小さな石のようなものだった。
「……これは、何だ?」
惟成はそれを受け取り、まじまじと見つめた。
「石鹸、と申すものでございます。穢れを祓うものだとか。」
「せっけん……?」
聞き慣れぬ言葉に眉を寄せつつも、惟成は言われた通り、両手でそれを擦り合わせた。
ぬるりとした感触が広がる。
「……ぬめりがあるな。……これは、泡か?」
やがて粗い泡が立ちはじめる。
「このようなもので、大丈夫なのか?」
「はい。その泡が穢れを絡め取り、水とともに流し去るのだそうでございます。」
「ほう。」
惟成は軽く頷き、小桶の水で手を洗い流した。
水を払って、改めて掌を見つめる。
「……妙に、さっぱりとしているな。」
小さく呟く。
「それだけ、穢れていたということか。」
すると、すぐ側に控えていた使用人が、さらに声をかけた。
「こちらの小さき石鹸をお持ち下さいませ。樋殿へ行かれた後、また食事の前には、必ずこれにて手をお清め下さいますよう。」
布と紙で丁寧に包まれた、小さな石鹸が手渡される。
「樋殿の側には水桶と手拭いを用意しておりますので、そちらをご利用下さいませ。」
「……ずいぶんと、徹底しているな。」
惟成はそう言いながら、掌の上の石鹸を見下ろした。
「まあ、良いが。」
そのとき、後方からひそやかな声が聞こえてきた。
「やはり、宇治で呪詛騒ぎがあるというのは本当だったのか。」
「何人も病で倒れたと聞くぞ。」
「こんな石ころのようなもので、本当に祓えるのか……。」
口々に囁き合う声。
惟成はそれを聞き流しながら、ふと視線を落とした。
(このようなものが無くとも、呪詛を弾く者はいるがな。)
脳裏に浮かぶのは、ひとりの少女の姿。
(あれほどのことは、そうそう起こるものではあるまい。)
一瞬だけ思いを巡らせ、それから軽く息を吐く。
(……さて、仕事だ。)
気持ちを切り替え、惟成は邸内へと足を踏み入れた。




