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第106話 呪詛の理、感染症の理

「寺に酒はなかろう。そこの僧、牛車に控える御者に伝えよ。邸より甘酒を運ばせるのだ。」


鷹丸は間を置かず言い切った。


「それと、塩——それから、水を用意せよ。」


紗世がすぐに口を開く。


「水は、そのままではなく……一度沸かし、冷ましたものを用意してください。」


僧が戸惑ったように顔を上げた。


「沸かした、水……でございますか?」


「ええ。その方が、身体に優しいのです。」


迷いのない声だった。


「……承知いたしました。」


僧は慌てて駆けていく。


「それから、まだ使っていない清らかな布も。口と鼻を覆いたいのです。」


紗世は続けた。


「口と鼻を……?何のために……?」


真砂が不思議そうに問う。


「口や鼻から穢れが入る、と聞いたことがあるの。だから、入らぬように防ぐのよ。」


やがて、甘酒と塩、そして一度沸かして冷ました水が運ばれてきた。


紗世はそれらを器に取り、静かに混ぜ合わせていく。


甘酒に、水を加え、さらにほんのわずかの塩。


薬匙でひと口、味を確かめる。


(……これなら)


小さく頷いた。


「身体を助ける飲み物です。」


伏せる者の数だけ、手際よく整えていく。


そしてまだ使っていない布も紗世の元へきた。

それで紗世は鼻と口を覆った。


「自力で飲める方には、ゆっくり飲ませてください。」


そう言うと、最も衰弱している二人分の器を手に取り、部屋の奥へと進んだ。


器をそっと置く。


「少し、体を起こしますよ。」


(……触れて、大丈夫)


一瞬のためらいを押し込み、年嵩の女房の身体を抱き起こした。


「——っ!」


鷹丸と真砂が息を呑む。


「慌てずに。ゆっくりでいいです。」


器を口元へ運ぶ。


こく。


かすかに喉が動いた。


「そう……そのまま、少しずつ。」


こく、こく……


紗世は一度器を離した。


「もう少し、いけますか?」


微かに女房が頷く。


紗世は静かに、再び器を差し出した。


同じように、もう一人の衰弱した者にも飲ませていく。


その間——


誰一人として、言葉を発する者はいなかった。


呪詛に侵されたと恐れられていた者に、何の躊躇いもなく触れ、寄り添うその姿。


それは、彼らの知る“理”とはあまりにも異なっていた。


(……呪詛では、ないのか)


誰ともなく、そんな思いが胸の奥に芽生えはじめていた。



───


翌日から、紗世は古寺へ通い続けた。


寺に満ちていた重苦しい空気は、日ごとにわずかずつ変わっていく。


あれほど絶えなかったうめき声は減り、室内にこもっていた嫌な匂いも、薄れていった。


紗世は自ら作った飲み物を与え、飲めぬ者には少しずつ口に含ませた。


食べられる者には、重湯や粥を用意させる。


さらに、朝夕には手や顔を石鹸で洗わせ、汚れのひどい衣は取り替えさせた。


替えた衣は、水で洗い、煮沸したうえで乾かす。


それを、繰り返した。


四日後——


衰弱の激しかった二名を除き、ほとんどの者が自力で歩けるまでに回復した。


古寺を出て、元の邸へ戻れるほどに。


残った二名も、すでに粥を口にできるまでになっている。


「……驚いたな。」


鷹丸は、静かに部屋を見渡した。


かつては死の気配すら漂っていた場所が、今は穏やかな静けさに包まれている。


「……本当に、呪詛ではなかったのか。」


ぽつりと漏れる。


「こちらのお二人も、もう心配はいりません。」


紗世は口元を覆っていた布を外しながら言った。


「後は、少しずつ体力を戻していくだけです。」


そのときだった。


「呪詛にかかった者を引き受けてくれるのは、こちらか!?」


寺の門の方から、切羽詰まった声が響いた。


外へ出ると、戸板に乗せられた男が苦しげに息をしている。


その周囲を、数人の使用人が取り囲んでいた。


「これは……」


僧が戸惑い、言葉を失う。


「ここで呪詛を解いてくれるのだろう!?先日まで、この寺に同じ病の者がいたと聞いたぞ!」


「——とりあえず、こちらへ!」


紗世が即座に声を張った。


迷いはなかった。


「そなたら、どこの家の者だ?」


鷹丸が戸板を担ぐ男に問う。


「大納言家に仕える者にございます。」


「大納言……?」


「はい。明日より宇治の別邸にて、護衛候補者の選抜が行われます。その準備のため、数日前より出入りしておりました。」


その言葉に——


紗世の肩が、わずかに震えた。


(護衛候補者の選抜……?)


胸の奥で、何かが繋がる。


(それって……)


苦しむ男へと視線を向ける。


(惟成が言っていた——?偶然……だよね。)


それでも、胸の奥のざわめきは消えなかった

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