第105話 中務卿宮別邸に広がりし病
──牛車の中
邸を出てから一刻ほど経った頃。
「……ねえ、真砂」
少し間を置いてから、紗世は口を開いた。
「なんでございましょう?」
真砂は機嫌よく応じる。久しぶりの遠出に、どこか浮き立っているようだった。
「ええと……先に言っておきたいことがあるんだけど……」
「はい?」
「向こうに着いたら、私のこと……“三条”って呼んでくれる?」
「……はい?」
真砂の表情が固まる。
「立場も……姫じゃなくて、同僚の女房として扱ってほしいの。」
気まずそうに視線を逸らす紗世。
その瞬間、真砂の顔色がみるみる変わった。
「ど……どういうことでございますか!?紗世様のご知人の邸へ向かわれるのでは!?」
「知人には違いないんだけど……その人には、私の本当の身分を伝えていなくて……」
「御者!牛車を——むぐっ!」
「しーっ!しーっ!!」
慌てて口を押さえる。
「何か?」
外から従者の声がかかる。
「あ、何でもございません。お気になさらず。」
紗世はなんとか取り繕い、真砂へ向き直った。
「お願い、真砂。ちゃんと聞いてほしいの。」
その真剣な声音に、真砂も言葉を飲み込む。
紗世は、鷹丸との出会いから始まり、石鹸を作った理由、宇治で起きている騒動が呪詛ではないと思っていること、そして自分の考えでそれを抑えられるかもしれないことを、包み隠さず話した。
「……」
話し終えても、真砂はしばらく無言だった。
「あの……真砂?」
「……っ、はあああああ〜〜〜……」
大きなため息が漏れる。
「分かっておりました!」
「え?」
「分かっておりましたとも。紗世様が、普通の姫君ではないことくらい。」
「普通の姫君じゃないって……」
「御簾も気にせず外へ出られるし、牛車を降りてご自身の足で歩かれることも多い。かと思えば、誰も思いつかぬようなことを平然と仰る……」
一気に言い切る。
「え、あの……真砂さん?」
「今回は、身分を偽り、三条などと名乗ると……」
一瞬だけ、真砂の表情が引き締まる。
「本来であれば、お許しできない振る舞いにございます。」
紗世は思わず息を呑んだ。
しかし次の瞬間、真砂はふっと力を抜いた。
「……ですが」
小さく肩をすくめる。
「紗世様にございますもの。」
「紗世様ですもの、って……」
「この話を、邸を出て一刻も経ってからなさったのも——引き返せぬように、でございましょう?」
ぎくり、と紗世の肩が跳ねた。
「ええ、よく存じておりますとも。」
紗世は観念したように俯いた。
「……ですから、お止めしても無駄ですもの。」
ゆっくりと顔を上げる。
「紗世様は、女房仲間で“三条”。よろしいですね?」
「……うん!!」
「ただし」
ぴしりと釘を刺す。
「危険と判断した場合は、即座に身分を明かし、和泉へお戻りいただきます。」
「ありがとう〜〜〜!!真砂〜〜〜!!」
紗世は思わず抱きついた。
「やっぱり真砂大好き!」
真砂は少し呆れたように息をつきながらも、その背を軽く支える。
その表情には、かすかな安堵があった。
和泉へ戻ってから見せることのなかった、生き生きとした表情。
それを取り戻しつつあることに、真砂は静かに胸を撫で下ろしていた。
──翌日の夕刻前
牛車が、ある邸の前で静かに止まった。
簡素に見える造りながら、柱や軒の細部にまで手が入っている。ひと目で、ただの邸ではないと分かる佇まいだった。
「あれ……古寺じゃ……ないの?」
紗世が小さく呟く。
「こちらにお連れするよう、鷹丸様より仰せつかっております。」
従者の言葉に、紗世はわずかに眉を寄せた。
牛車から降りる支度をしていると——
「三条殿!よく来てくれた!」
振り返れば、鷹丸が立っていた。
「鷹丸様。文でも申し上げましたが、今回は女房仲間の真砂も一緒でございます。石鹸作りにも手を貸してくれますので……」
紗世は真砂をそっと前へ出す。
「ああ、構わぬ。むしろありがたい。よろしく頼む、真砂殿。」
鷹丸はにこやかに頷いた。
「では、こちらへ。」
案内されるまま長い廊下を進む。足音が静かに響き、やがて一室へ通された。
調度の整った、落ち着いた部屋だった。
「滞在中は、この部屋を自由に使ってくれ。」
女房の控えとしては、あまりに行き届いている。
「あの……こちらは、どなたのお邸なのでしょうか?」
紗世は慎重に尋ねた。
鷹丸は、あっさりと答えた。
「言っていなかったか。中務卿宮様の別邸だ。」
(な……中務卿宮様……!?)
心の中で叫ぶ。
(皇族じゃん……!)
「あ、あの……宮様はどちらに?ご挨拶を……」
「宮様は都へ戻られている。この邸には今、私と側近、そして留守を預かる者たちだけだ。」
さらりと続ける。
「この件は表に出せぬ。ゆえに、外聞は気にせずよい。しばらくは自由に過ごすがよい。」
「そ、そんな……」
戸惑う紗世をよそに、鷹丸は軽く笑った。
「案ずるな。本当に宮様はおられぬ。荷を置いたら、落ち着いたところで私の部屋へ来てくれ。」
そう言って、奥へと消えていった。
──鷹丸の部屋
「よく来てくれた。まずは礼を言う。ありがとう。」
鷹丸は、真っ直ぐに頭を下げた。
「い、いえ……。助言めいたことを申し上げた手前、気にはなっておりましたから……」
「そう、それだ。」
ぱちん、と扇を鳴らす。
「三条殿の言った通りにしてみたのだ。半信半疑ではあったが……やってみる価値はあると思ってな。」
紗世は息を呑む。
「その後、回復する者が現れ、悪化する者が減った。今では、新たに倒れる者はおらぬ。」
「……それは……」
紗世は胸の奥がほどけるのを感じた。
「ただし、まだ床に臥している者たちはいる。」
鷹丸の表情がわずかに曇る。
「その者たちは、古寺の方に隔てておる。」
「……古寺へ、案内していただいてもよろしいでしょうか。」
「紗——三条!?」
真砂が息を呑む。
鷹丸も一瞬だけ表情を強ばらせたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった。案内しよう。」
再び牛車に乗り、しばらく進む。
やがて、木立の奥に古びた寺が姿を現した。
「この僧坊の一角を、病の者のために使っておる。」
鷹丸が指し示す。
近づくと、一人の僧が慌てて駆け寄ってきた。
「鷹丸様!なりませぬ!穢れに触れては——呪詛が移ります!」
(……やっぱり、そう思われてるよね)
紗世は僧を見つめた。
「少し様子を見るだけです。すぐに戻ります。」
そう言って、ためらわずに歩み出す。
(……うつる可能性、あるよね)
一瞬、胸がざわつく。
(でも、このまま放っておいたら——)
足は止まらなかった。
部屋に入ると、六、七人ほどが床に伏していた。
空気が重く、どこか乾いている。
「この方たちの症状は?」
紗世は傍にいた若い僧に尋ねた。
「あの……熱があり、手前の三人は腹を下しております。真ん中の二人は熱が下がりつつあり……奥の方は、熱はさほどでもないのですが、衰弱が激しく……」
「……そう。食事は?水は?」
「それが……ほとんど口にできておらず……近づけば、その……呪詛が……」
「……つまり、ほとんど飲まず食わずなのね。」
小さく呟く。
(それじゃ……もたない)
紗世は、そのまま一歩踏み込んだ。
「三条!!?」
「三条殿!!」
背後で、鷹丸と真砂の声が重なる。
紗世は振り返らず、伏せる人々を見た。
(脱水……このままじゃ、感染症じゃなくても……
脱水……スポーツドリンクなんてないし、作るしか…。
あ!!甘酒!確か現代では飲む点滴って呼ばれてた!!)
くるりと踵を返し、鷹丸をまっすぐ見据える。
「鷹丸様。薄めた甘酒と、塩を用意してください。」
「酒と塩……祓いか?」
「違います。」
一歩、前に出る。
「祓うのではありません。」
静かに、しかしはっきりと言い切った。
「この方たちを、回復させるのです。」




