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第104話 いざ宇治へ

──左兵衛府


「惟成!」


不意に呼ばれ、惟成は振り返った。そこには、父の同僚でもあり、元服前から目をかけてくれていた上官が立っていた。


「菅原様。」


軽く頭を下げる。


「父君の近衛少将への昇進、おめでとう。」


「ありがとうございます。」


「父君が近衛府へ移られて、不安はないか?」


「いえ。同じ武官とはいえ、父は普段は 源氏の君の随身として出仕することが多く、もともと顔を合わせる機会はほとんどございませんでしたので。」


「そうか。」


菅原は頷いた。


「お前も兵衛志にしては異例の働きぶりだ。昇進も早かろうな。」


「……恐れ入ります。」


「それより、別件で呼ばれたそうだな。」


「はい。護衛志願者の試験にて、対戦相手を務めることになりました。」


「場所はどこだ?」


「宇治にございます。」


「……宇治か。」


菅原はわずかに眉をひそめた。


「何か、ございますか?」


「いや……まだ正式な報せではないのだがな。」


菅原は視線を外し、言葉を選ぶように続けた。


「宇治で、妙なことがあったらしい。」


「妙なこと……?」


「呪詛ではないか、と噂されている。」


惟成の表情が、わずかに引き締まる。


「ある邸でな、主人をはじめ側近、女房、使用人……果てはその家人に至るまで、次々と倒れたそうだ。」


「倒れた?病では……?」


「それが、その邸に関わった者ばかりが、狙ったように倒れたという。」


菅原は低く言った。


「これほど人を選んで苦しめるなど、呪詛くらいのものだろう。」


惟成は、黙ってその話を聞いていた。


「祓いのために呼ばれた陰陽師までも、同じように倒れたらしい。」


「……」


「まあ、その邸に関わらなければ問題はあるまい。」


菅原は肩をすくめる。


「だが、用心はしておけ。」


「……その邸は、どなた様の邸なのですか?」


「中務卿宮様の別邸らしい。」


「宮様……皇族の方に呪詛を……?」


「もし、かけた側が露見すれば、ただでは済むまい。」


菅原は淡々と言った。


「死罪か、よくて遠流だろうな。」


そう言い残し、菅原はその場を去っていった。


(今回の仕事は、中務卿宮様の件とは別だ……。関わらぬなら、問題はあるまい。)


惟成は、ふと空を見上げた。


秋の気配が、わずかに漂っている。


(宇治、か……。呪詛など妙な噂もあるようだが……)


一瞬だけ思案し、やがて小さく首を振る。


(紗世は……元気にしているだろうか……。)


その名を胸に浮かべると、わずかに表情が和らいだ。


吹き抜けた風が、静かに季節の移ろいを告げていた。





──和泉守邸・父兼成の居室


父を前に、紗世は居住まいを正して座っていた。


「話があると?なんだ?」


兼成の顔には、あからさまな警戒の色が浮かんでいる。


「父上、紗世は石清水八幡宮へ参詣に参りとうございます。」


「なぜ、急に?」


「急ではございません。和泉へ戻ってから遠出を控えておりましたが……神仏への感謝も怠っていたと感じております。」


「なぜ石清水なのだ。他にもあろう。」


「六条御息所様にお仕えしていた折、親しくなった女房が宇治の出身でございます。先日文で、参詣の折に立ち寄らぬかと誘われました。」


「……ふむ。」


兼成はしばし考え込む。


「姫がまた呪詛に巻き込まれるようなことはあるまいな?」


「はい。神仏への参詣にて、穢れを招くことはございますまい。」


ふう、と兼成はため息をついた。


「参詣の遠出となる以上、軽々しくは許せぬ。出立の日、宇治での滞在場所、帰宅日——すべて明らかにせよ。」


「はい。整えてご報告いたします。」


「……よかろう。」


「ありがとうございます、父上。」


その声には、抑えきれぬ喜びが滲んでいた。


その日のうちに、紗世は鷹丸へ文をしたため、宇治へ向かう旨を簡潔に記した。




──出立の日・早朝


まだ朝靄の残る頃、和泉守邸の前に一台の牛車が静かに控えていた。


御者と数人の供を伴ったその車は、一目で分かるほど整えられている。


「……姫よ。」


兼成が低く言った。


「これは……誰の手配だ?」


「え……あの……宇治の知人の計らいかと……」


紗世は一瞬言葉に詰まりながら答える。


兼成の眉が、わずかに寄る。


「女房の伝手で用意できるものではあるまい。」


「……」


紗世は曖昧に微笑むしかなかった。


(……これ、どう見ても普通じゃない……。


鷹丸様……一体何者なの……。)


内心で小さくため息をつく。


「……真砂。」


「はい。」


「姫を頼む。妙な気配を感じたら、すぐ引き返せ。」


「承知いたしました。姫様は必ずお守りいたします。」


「……何もしでかさなければよいがな。」


兼成は小さく呟いた。


紗世と真砂は牛車へと乗り込む。


簾が下ろされ、外の気配がわずかに遠のく。


(何かしでかしたら、って……父上、本当に信用してないな……。)


苦笑が漏れた。


やがて、牛車は静かに動き出す。


軋む音とともに、邸の門が遠ざかっていく。


紗世は簾の隙間から外を見やった。


見慣れた景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。


(宇治……)


胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。


(鷹丸様の言っていた“呪詛”……あれが本当に病だとしたら——)


そして、もうひとつの想いが浮かぶ。


(惟成……)


その名を心の中でそっと呼ぶ。


(会えるかもしれない……。)


期待と不安が、静かに入り混じる。


牛車は、都へと続く道を進み始めていた。

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