表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

103/161

第103話 上京の誘い

紗世は牛車の中から、小さな紙包みを取り出した。


「こちらでございます。」


差し出されたそれを、鷹丸は受け取る。


「……開けても?」


紗世がこくりと頷く。


紙を開くと、さらに布に包まれた、くすんだ色の固形物が現れた。


「鷹丸様、それを持ってこちらへ。」


そう言って、紗世は小川の方へ歩き出す。



「まず、手を軽く濡らしてください。」


鷹丸は膝を折り、小川の水で手を濡らした。


「その石鹸を、両手で擦ってみてください。」


言われるままに擦ると──


「……おお?」


指の間から、粗い泡が立ち始める。


「何やら泡が……大丈夫なのか、これは。」


驚いたように目を見張る。


「大丈夫です。」


紗世は静かに言った。


「その泡が、穢れを包み込んで流すのです。」


「泡が……穢れを!?」


思わず声が上がる。


「そのようなことが……」


「もう十分です。そのまま水で洗い流してみてください。」


鷹丸は石鹸を返し、小川の水で手を洗い流した。


泡が消え、素肌が現れる。


「……!」


鷹丸は思わず手を見つめた。


「なんだ……これは……」


指を擦り合わせる。


「……さっぱりする。まるで……何かが落ちたような……。」


紗世は小さく頷いた。


「穢れ、というよりは……“目に見えぬ汚れ”が落ちたのです。

その汚れが、体に悪さをすることがあるのだと思います。」


鷹丸は無言で、自分の手を見つめ続けている。


先ほどまでの疑いが、少しずつ崩れていくのが分かった。


「この石鹸で、外から戻った際には必ず手を清めてください。」


紗世はそう言いながら、再び牛車へ向かった。


紙を一枚取り出し、戻ってくる。


「それから……こちらを。」


鷹丸はそれを受け取り、目を落とした。


そこには、整った文字でこう記されていた。




『邸に入る前に、必ず手を石鹸で清めること。


飲み水は、一度沸かしてから冷ましたものを用いること。


吐瀉物、排泄物が付いた衣は水洗いの後、煮沸してから乾かすこと。


体調の悪い者は、他の者と部屋を分けること。』




読み終え、ゆっくりと顔を上げる。


「……これを、すべて?」


「はい。」


紗世は静かに頷いた。


「ひと月ほど続けてみてください。倒れる方が減るようであれば……」


一瞬だけ言葉を置く。


「それは、呪詛ではない可能性が高いかと。」


鷹丸はしばらく黙り込んだ。


そして、ふっと息を吐く。


「……三条殿。」


顔を上げる。


その目には、先ほどとは違う光があった。


「無理な願いと分かっていて、あえて頼む。


私の主は、今、宇治におられる。」


紗世の表情が、わずかに動く。


「宇治……でございますか?」


「ああ。側近らが倒れたのも宇治でな。呪詛であれば、都へ戻るのは危ういと……今はあちらに留まっておられる。」


一歩、近づく。


「共に、来てはもらえぬか。」


紗世は目を見開いた。


そして、ゆっくりと首を横に振る。


「……それは、難しいかと。」


一瞬の沈黙。


だが、鷹丸は苦笑した。


「……であろうな。」


肩の力を抜く。


「だが、三条殿の話は実に興味深い。」


視線が、手の中の石鹸へと落ちる。


「これほどのものを作るとは……ただの女房ではあるまいな。」


紗世はわずかに視線を逸らした。


「そうだ。」


鷹丸が顔を上げる。


「どこの邸に仕えている?文を送りたい。

毎回ここで会えるとは限らぬ。」


「あ、ええと……大きなお邸ではないのですが……」


一拍置いて、


「和泉守様の邸には、よく出入りしております。そちらに文を送っていただければ、届くかと。」



「なるほど。」


鷹丸は頷き、懐から紙を取り出した。


さらりと何かを書きつけ、差し出す。


「私は、ここにいる。」


紗世が受け取る。


そこには、宇治の古寺の名が記されていた。


「そこへ“鷹丸宛”とすれば届く。」


そう言うと、鷹丸は軽やかに馬へ乗る。


手綱を引き、振り返った。


「まずは、三条殿の言う通りにしてみよう。」


その声には、確かな意志が宿っている。


「もし宇治へ来られることがあれば、いつでも文をくれ。」


風を切り、馬が駆け出す。


その背は、あっという間に小さくなっていった。


紗世は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


手の中の紙を、静かに見つめながら。


(……宇治、か。)


胸の奥に、小さなざわめきが残った。




──その日の夕刻


「紗世様。お文が届いておりますよ。」


にこにことした顔で、真砂が文を手に部屋へ入ってきた。


「なんか嬉しそうだね。どうしたの?」


紗世は笑いながら尋ねる。


「ええ。嬉しいのですわ。だってこの文——源惟成様からですもの。」


その言葉に、紗世の表情がぱっと明るくなる。


「惟成から!?」


「ふふ。紗世様のそのお顔が見られて、真砂も嬉しゅうございます。」


紗世は頬を緩めたまま、文を受け取った。



六条御息所や陰陽頭、源氏の君との文は、都の情勢や宮中の話が多い。


けれど、惟成の文は違う。


庭の桜が咲き始めたこと。

夏の稽古の合間に川へ入り、心地よかったこと。

仕事にやり甲斐を感じていること。


ただの日常。


けれど、それが紗世の心を静かに満たした。


(都に戻ったら……桜も、川も……一緒に見れたらいいな……。)


「惟成様は何と?」


真砂が覗き込む。


「うん……新しい仕事を任されたみたい。」


「まあ。やはり優秀なお方なのですね。」


「そうなの。私も後で知ったんだけど——」


紗世は少し得意げに笑う。


「元服してすぐに兵衛志になるのって、かなり珍しいんだって。家柄か、武芸がよほどでないと無理らしいよ。」


惟成は武官の家の出ではあるが、今はそこまで強い家門ではない。


それでも任じられたのは、純粋にその腕が抜きん出ていたからだと源氏の君から聞いている。


「え!?すごい……」


文を読み進めていた紗世が、思わず声を上げた。


「試験官みたいなことやるんだって。」


「試験官……でございますか?」


「うん。ある貴族が護衛を募集して、その選考で志願者たちと試合をするんだって。その相手役を惟成がやるみたい。」


「本当に、お強いのですね。」


真砂の言葉に、紗世は誇らしげに頷く。


そのまま、さらに文を読み進めて——


「……え……」


ぴたり、と手が止まった。


「紗世様?」


「……宇治……?」


小さく、呟く。


「宇治が、どうかなさいました?」


「この試合……宇治の別邸で行うって……」


(宇治……)


その名が、胸の奥で重く響く。



(鷹丸様たちがいる場所……


あそこ……もしかしたら……)



腹を下し、高熱を出し、広がっていく病。


頭の中に、あの話が蘇る。


(赤痢……腸の病気……


もし、そうだったら——)



ぶん、と首を振った。



(大丈夫。きっと別の場所……。


古寺と、貴族の別邸……同じじゃないはず……。)



自分に言い聞かせる。


けれど、不安は消えない。


紗世はもう一度、文へと視線を落とした。


「宇治……か……」


そして——


ふと、本音がこぼれた。


「惟成に……会えるかな……。」


その言葉は、誰に向けるでもなく。


夕暮れの空気の中に、静かに溶けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ