第103話 上京の誘い
紗世は牛車の中から、小さな紙包みを取り出した。
「こちらでございます。」
差し出されたそれを、鷹丸は受け取る。
「……開けても?」
紗世がこくりと頷く。
紙を開くと、さらに布に包まれた、くすんだ色の固形物が現れた。
「鷹丸様、それを持ってこちらへ。」
そう言って、紗世は小川の方へ歩き出す。
「まず、手を軽く濡らしてください。」
鷹丸は膝を折り、小川の水で手を濡らした。
「その石鹸を、両手で擦ってみてください。」
言われるままに擦ると──
「……おお?」
指の間から、粗い泡が立ち始める。
「何やら泡が……大丈夫なのか、これは。」
驚いたように目を見張る。
「大丈夫です。」
紗世は静かに言った。
「その泡が、穢れを包み込んで流すのです。」
「泡が……穢れを!?」
思わず声が上がる。
「そのようなことが……」
「もう十分です。そのまま水で洗い流してみてください。」
鷹丸は石鹸を返し、小川の水で手を洗い流した。
泡が消え、素肌が現れる。
「……!」
鷹丸は思わず手を見つめた。
「なんだ……これは……」
指を擦り合わせる。
「……さっぱりする。まるで……何かが落ちたような……。」
紗世は小さく頷いた。
「穢れ、というよりは……“目に見えぬ汚れ”が落ちたのです。
その汚れが、体に悪さをすることがあるのだと思います。」
鷹丸は無言で、自分の手を見つめ続けている。
先ほどまでの疑いが、少しずつ崩れていくのが分かった。
「この石鹸で、外から戻った際には必ず手を清めてください。」
紗世はそう言いながら、再び牛車へ向かった。
紙を一枚取り出し、戻ってくる。
「それから……こちらを。」
鷹丸はそれを受け取り、目を落とした。
そこには、整った文字でこう記されていた。
『邸に入る前に、必ず手を石鹸で清めること。
飲み水は、一度沸かしてから冷ましたものを用いること。
吐瀉物、排泄物が付いた衣は水洗いの後、煮沸してから乾かすこと。
体調の悪い者は、他の者と部屋を分けること。』
読み終え、ゆっくりと顔を上げる。
「……これを、すべて?」
「はい。」
紗世は静かに頷いた。
「ひと月ほど続けてみてください。倒れる方が減るようであれば……」
一瞬だけ言葉を置く。
「それは、呪詛ではない可能性が高いかと。」
鷹丸はしばらく黙り込んだ。
そして、ふっと息を吐く。
「……三条殿。」
顔を上げる。
その目には、先ほどとは違う光があった。
「無理な願いと分かっていて、あえて頼む。
私の主は、今、宇治におられる。」
紗世の表情が、わずかに動く。
「宇治……でございますか?」
「ああ。側近らが倒れたのも宇治でな。呪詛であれば、都へ戻るのは危ういと……今はあちらに留まっておられる。」
一歩、近づく。
「共に、来てはもらえぬか。」
紗世は目を見開いた。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「……それは、難しいかと。」
一瞬の沈黙。
だが、鷹丸は苦笑した。
「……であろうな。」
肩の力を抜く。
「だが、三条殿の話は実に興味深い。」
視線が、手の中の石鹸へと落ちる。
「これほどのものを作るとは……ただの女房ではあるまいな。」
紗世はわずかに視線を逸らした。
「そうだ。」
鷹丸が顔を上げる。
「どこの邸に仕えている?文を送りたい。
毎回ここで会えるとは限らぬ。」
「あ、ええと……大きなお邸ではないのですが……」
一拍置いて、
「和泉守様の邸には、よく出入りしております。そちらに文を送っていただければ、届くかと。」
「なるほど。」
鷹丸は頷き、懐から紙を取り出した。
さらりと何かを書きつけ、差し出す。
「私は、ここにいる。」
紗世が受け取る。
そこには、宇治の古寺の名が記されていた。
「そこへ“鷹丸宛”とすれば届く。」
そう言うと、鷹丸は軽やかに馬へ乗る。
手綱を引き、振り返った。
「まずは、三条殿の言う通りにしてみよう。」
その声には、確かな意志が宿っている。
「もし宇治へ来られることがあれば、いつでも文をくれ。」
風を切り、馬が駆け出す。
その背は、あっという間に小さくなっていった。
紗世は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中の紙を、静かに見つめながら。
(……宇治、か。)
胸の奥に、小さなざわめきが残った。
──その日の夕刻
「紗世様。お文が届いておりますよ。」
にこにことした顔で、真砂が文を手に部屋へ入ってきた。
「なんか嬉しそうだね。どうしたの?」
紗世は笑いながら尋ねる。
「ええ。嬉しいのですわ。だってこの文——源惟成様からですもの。」
その言葉に、紗世の表情がぱっと明るくなる。
「惟成から!?」
「ふふ。紗世様のそのお顔が見られて、真砂も嬉しゅうございます。」
紗世は頬を緩めたまま、文を受け取った。
六条御息所や陰陽頭、源氏の君との文は、都の情勢や宮中の話が多い。
けれど、惟成の文は違う。
庭の桜が咲き始めたこと。
夏の稽古の合間に川へ入り、心地よかったこと。
仕事にやり甲斐を感じていること。
ただの日常。
けれど、それが紗世の心を静かに満たした。
(都に戻ったら……桜も、川も……一緒に見れたらいいな……。)
「惟成様は何と?」
真砂が覗き込む。
「うん……新しい仕事を任されたみたい。」
「まあ。やはり優秀なお方なのですね。」
「そうなの。私も後で知ったんだけど——」
紗世は少し得意げに笑う。
「元服してすぐに兵衛志になるのって、かなり珍しいんだって。家柄か、武芸がよほどでないと無理らしいよ。」
惟成は武官の家の出ではあるが、今はそこまで強い家門ではない。
それでも任じられたのは、純粋にその腕が抜きん出ていたからだと源氏の君から聞いている。
「え!?すごい……」
文を読み進めていた紗世が、思わず声を上げた。
「試験官みたいなことやるんだって。」
「試験官……でございますか?」
「うん。ある貴族が護衛を募集して、その選考で志願者たちと試合をするんだって。その相手役を惟成がやるみたい。」
「本当に、お強いのですね。」
真砂の言葉に、紗世は誇らしげに頷く。
そのまま、さらに文を読み進めて——
「……え……」
ぴたり、と手が止まった。
「紗世様?」
「……宇治……?」
小さく、呟く。
「宇治が、どうかなさいました?」
「この試合……宇治の別邸で行うって……」
(宇治……)
その名が、胸の奥で重く響く。
(鷹丸様たちがいる場所……
あそこ……もしかしたら……)
腹を下し、高熱を出し、広がっていく病。
頭の中に、あの話が蘇る。
(赤痢……腸の病気……
もし、そうだったら——)
ぶん、と首を振った。
(大丈夫。きっと別の場所……。
古寺と、貴族の別邸……同じじゃないはず……。)
自分に言い聞かせる。
けれど、不安は消えない。
紗世はもう一度、文へと視線を落とした。
「宇治……か……」
そして——
ふと、本音がこぼれた。
「惟成に……会えるかな……。」
その言葉は、誰に向けるでもなく。
夕暮れの空気の中に、静かに溶けていった。




