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第102話 清めの石鹸

──数日後


「紗世様?それは一体……。」


早朝庭先で、真砂が怪訝そうに首を傾げた。


紗世の前には、椿油と藁灰が並べられている。


「うん。石鹸を作ってみようと思って。」


「せ……っけん……とは?」


「手や足や体を、きれいにするためのものだよ。」


説明を聞いても、真砂の表情には疑問が浮かんだままだった。


(平成とか令和の時代に見たドラマ……。江戸に飛ばされた人が、灰と油で作ってたやつ……あれを思い出せ……。)


紗世は記憶を手繰り寄せながら、小さく息を吐く。



庭の片隅には、小さな釜が据えられていた。


あらかじめ集めておいた藁灰を、さらさらと釜に流し入れる。


「これに……水を」


控えていた女房が、静かに桶の水を注ぐ。


灰はゆっくりと沈み、やがて濁った液が底に溜まっていく。


「よし。これを火にかけるよ。」


「灰を?煮る?のですか……?」


真砂が困惑した表情を見せた。


グラグラと灰が入った湯が煮えたぎる。


「そろそろ釜を下ろして。そしたらちょっと冷ましておいて。」


そう言った横で紗世は次の準備を始めた。


大きな(ざる)に麻の布を被せた。


「紗世様、これは?」


真砂が聞く。


「うん。これで、藁灰水を濾すの。濾して、余分な灰は取り除くの。」


「……はぁ…。」


真砂はまだ理解が追いつかない様子だった。


濾して、半刻ほど置いた。


────


紗世は濾して冷ました水、灰汁を指先に触れる。


わずかに残る感触。


紗世は小さく頷いた。


「……これでいい…かな。」


器を脇に置き、振り返る。


「油、持ってきて。」



別の釜では、椿油がゆるやかに温められていた。


ほのかに甘い香りが、ふわりと漂う。


「姫様、その油は……髪に使うものでは?」


女房が戸惑いを含んだ声を上げる。


「うん。でも今日は、“身体を清めるため”に使うの。」


紗世は静かに答えた。




温めた油の中へ、灰汁を少しずつ注いでいく。


一度に入れれば分離する──

それを知っている手つきだった。


木の匙で、ゆっくりと混ぜる。


とろり、と。


ただの液だったものが、次第に重みを持ちはじめる。


「……変わっていく」


誰かが、思わず呟いた。


紗世は小さく頷く。


「見えないだけで、混ざり合っているの。油と、水と……その間にあるものが。」


やがて、液は艶を帯びた乳白色へと変わっていった。



「触れてみて。」


差し出されたそれに、女房はおそるおそる指をつける。


「……ぬめりが……でも、嫌な感じでは……」


「それでいいの。水で流してみて。」


言われるままに指を洗い流した女房は、はっと息を呑んだ。


「……すべすべに……」



紗世は、かすかに笑った。


「これで、穢れは落ちるんだ。」



女房たちは顔を見合わせる。


祓うのではなく、落とす。


見えぬものを、洗い流す。


それは、彼女たちの知る“清め”とは、まるで異なるものだった。



庭を渡る風が、椿の香りを運ぶ。


まだ誰も知らないその白い塊は──


やがて、人の運命さえ変えていくことになる。





──ひと月後


紗世がいつものように野へ散歩に出た、その時だった。


「三条殿!」


遠くから声が飛ぶ。


振り向くと、一騎の馬が駆けてくるのが見えた。

やがて勢いよく馬を止め、飛び降りたのは鷹丸だった。


「お久しぶりです、鷹丸様。どうされたのですか?」


「……良かった。会えた。」


その声音には安堵が滲んでいたが、表情は穏やかではない。


どこか張り詰めたものがある。



「三条殿、以前話したことを覚えているか?」


「鷹丸様の主様が、呪詛にかけられているというお話ですか?」


「ああ。」


短く頷くと、鷹丸は一歩踏み出した。


「もし——」


わずかに言葉を切る。


「もし、あれが呪詛ではなく……“病”だとしたら。」


その視線が、真っ直ぐに紗世を射抜いた。



「病を治す手立ては、あると思うか?」



紗世は、すぐには答えなかった。


足元の草を見つめ、静かに息を整える。


(……やっぱり、気づき始めてる。)


あの時の話が、頭から離れなかったのだろう。



「……治す、というのは……難しいかもしれません。」


やがて、ゆっくりと口を開く。


「ですが——」


顔を上げる。


「広がりを抑えることなら、できるかもしれません。」


「広がり……?」


鷹丸の眉が、わずかに寄る。



「はい。同じ邸にいる者から倒れ、看病した者も同じように倒れるのであれば……それは、“移っている”のだと思います。」


「移る……」


低く、繰り返す声。


その言葉は、この時代にはまだ馴染まない響きだった。


「触れたものや、使ったものを通して……体の内に入ってしまうのかと。」


紗世は慎重に言葉を重ねる。


「ですから——」


一歩、距離を詰める。


「触れた後は手を洗うこと。使う水を分けること。そして……触れたものの穢れを、きちんと落とすこと。」


鷹丸は黙って聞いていた。


その表情には、まだ疑いが残っている。



「……水で清めるだけでは、足りぬのか?」


やがて、ぽつりと問う。


紗世は小さく首を振った。


「水だけでは、落ちきらないものもあります。」


ほんの少しだけ、口元を緩める。


「だから……それを、落としやすくするものを作りました。」


「作った……?」


鷹丸の眉が、わずかに動く。


「はい。“石鹸”と申します。」


風が、二人の間をすり抜ける。


鷹丸はしばし無言のまま、紗世を見つめていた。


やがて、ゆっくりと口を開く。


「……それは、本当に効くのか。」


疑いと、わずかな希望が入り混じった声音だった。


紗世は、静かに頷く。


「試していただくのが、一番早いかと。」


その言葉に、鷹丸は一瞬だけ目を伏せた。


そして——


「……石鹸とやら、見せてくれないか。」


短く、そう言った。


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