【第28話】肉球の洗礼と、森の観測者
一歩、踏み出した。
土を踏む音が、やけに大きく響いた。
その瞬間。
大剣を構えた獣人の顔が、わずかに引きつる。
太い腕が微かに震え、全身の筋肉が限界まで張り詰めるのが分かった。
口を大きく開けて何かを叫んでいる。
だが、それは言葉というより、唸り声のようにしか聞こえなかった。
ただ、彼から発せられるピリピリとした空気が、限界まで膨れ上がった。
空気が、凍りつく。
後ろでシオンが息を呑み、動こうとする気配がする。
でも、僕の方が早かった。
スッ、と。
僕は右の前足を持ち上げる。
戦士の目が見開かれた。
大剣を握る手に力がこもり、決死の覚悟で歯を食いしばるのが見える。
――次の瞬間。
ぽふっ。
巨大な肉球が、戦士の頭――ピンと立った狼耳の上に、ふわりと触れた。
(……やわらかい)
想像以上の感触だった。
耳の根元のフワフワ感。軟骨の絶妙な弾力。
肉球を通して伝わる、極上の手触り。
(最高……っ!)
思わず、ワシャワシャと撫で回してしまう。
一方、戦士の様子がおかしい。
目を見開いたまま、微動だにしない。
そして。
彼の手から大剣が、がらがらと音を立ててこぼれ落ちた。
戦士の膝が、ゆっくりと崩れる。
まるで、見えない何かに押さえつけられているかのように。
そのまま地面に両手をつき、深く頭を垂れた。
その様子を見ていた周囲の獣人たちが、ざわめいた。
「……おい」
「ガロが……?」
誰も動けない。
ただ、目の前の光景を信じられないという顔で見つめている。
一歩、後ずさる者。
武器を握る手が震え出す者。
張り詰めていた空気が、別の意味で軋み始めた。
(……?)
戦士が、低い声で何かを呟いている。
後ろで、セレンが天を仰いだ。
「ああ……! 荒ぶる獣の戦士が、神獣様の御手に触れられ、平伏いたしましたわ!」
猛スピードで羽ペンが走る音がする。
シオンは呆然と立ち尽くしていた。
「……あのデカブツを、撫でただけで……?」
シオンの方から、小さく舌打ちが聞こえた。
(……?)
僕が撫でるのをやめると、戦士はビクッと肩を揺らし、さらに頭を低く地面に擦り付けた。
(……まだ頭を下げてる)
(じゃあ、もう少し)
(……こっちも気になる)
僕の視線が、もう片方の耳に向いた。
さっき触れたのとは逆側。
同じようにピンと立っているが、毛の流れが少し違う。
(……比べたい)
僕はそっと、もう片方の耳にも肉球を乗せた。
ぽふっ。
ビクッ!!
戦士の体が、大きく跳ねた。
「――ッ……!」
喉の奥から、押し殺したような声が漏れる。
そのまま、さらに深く頭を地面に押し付けた。
(……こっちもやわらかい)
左右で微妙に違う感触。
こっちの方が、しっとりしている気がする。
(……どっちもいい)
僕は満足して、ゆっくりと前足を引いた。
◇
――少し離れた、深い森の奥。
木々の隙間から、その一部始終を見つめる気配があった。
『……面白い』
深い声が、森の奥で微かに響く。
『もう少し、見ていよう』
それは風のように、音もなく闇へと溶けていった。




