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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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………歌が、聞こえる。

大精霊の声だ。

大精霊が、歌っている。


僕は精神をその声に集中する。

笛を使えば、もっと、簡単に、歌に合流できるんだけど。

これ以上、事をややこしくしたくはないから、笛は使わない。


大丈夫。

きっと、できるはず。


目を閉じ、意識を研ぎ澄ます。

声を聞き、その流れに心をのせる。

ぴったりと、心がそこに沿うとき…


彼女は、目の前に立っていた。


ここは、あの鉢の中、だろうか?

ヘルバの木は背丈ほどの大さで、彼女はそこにもたれるように立っている。


だけど、その若木は、僕の目にも分かるくらい、元気がなかった。

枝も分かれず、葉もとても少ない。

せっかく芽吹いた新しい葉も、先端が丸まって、乾燥しかかっていた。


世界は、まるく切り取られた小さな球の中にあって、球の外側はぼんやりとして、何も見えなかった。


「やあ。」


他に言いようはないものかと、自分でも思う。

でも、こんなときほど、いつも通り、の挨拶になる。


「お兄さま。お久しぶりです。」


そうして、返ってくるのも、たいていは、いつも通りの言葉なんだ。


さぞ、恐ろしかっただろう。

この世界に実体を持たない精霊は、簡単にその存在を失ってしまう。

そうならないように、たとえば、彼女は、ヘルバの木に宿ることで、ここに繋ぎ留められていたのだけれど。

その木を失えば、彼女の存在は、消滅するしかない。

たとえ、大精霊、という存在だろうと、それは免れない運命なんだ。

およそ、ありとあらゆる存在にとって、消滅は、根元的な恐怖だ。

そんな思いをした彼女に対して、僕には、かけられる言葉がなかった。


「…大変、だったね…?」


結局、口にするのは、そんな言葉だ。


そんな一言に尽くせないほどの恐怖。

それはきっと、今も彼女の中に残っているだろう。

この世界を救い、その後も、力を尽くしてきてくれた彼女に。

この世界が返した仕打ちは、あり得ないほど酷い。


それでも、彼女から伝わってくるのは、怒り、でも、憎しみ、でも、恨み、でもなかった。

ただ、ひたすらに、慈しみ、思いやる。

今は、そこに、ほんの少しだけ、悲しみも混じっていたけれど。

それすらも、誰かを責め、糺すものではなかった。


大精霊。

改めて、彼女の存在を思い知る。

僕らの想像すら及ばない、彼女は大きく温かく、この世界を包み込むような存在なんだ。


「みなさんが、助けてくださいました。」


大精霊は振り返って、ヘルバの木にそっと手をあてた。

その木肌を確かめるように、ゆっくりと手で撫でる。

慈しむように、愛おしむように、木を見つめる瞳は、優しく清んでいた。


「けれど。

 わたくしという存在は、この木には、荷が勝ち過ぎるようです。」


大精霊の掌から、癒しの光が、木へと送り込まれる。

それは、万物を癒す力だけれど。

若木の先端から、はらり、と葉が一枚、離れて落ちた。


大精霊のエエルは、この若木では、到底、受け止めきれないんだ。

ヘルバの木には、森ひとつほどの力があった。

それくらいでなければ、大精霊の存在を宿すことはできないんだろう。


「木の命のために、わたくしは消滅したほうが、よいのです。

 けれども、わたくしは、お約束してしまいました。

 未来永劫この地に留まり、この世界を守護いたします、と。」


大精霊は困ったように首を傾げた。


「精霊は嘘を申せません。

 けれど、無理を通せば、エエルに歪な力がかかり、それは思いもよらない禍となりましょう。

 そうなれば、わたくしは、世界則の番人によって、排除されるに違いありません。

 それでは、世界を守護すると申した誓いを守ることができません。」


強い決意を宿した目をして、大精霊は僕を見た。


「お兄さま。

 わたくしは、なんとしても、器を得なければなりません。

 その方法は、ただひとつ。

 わたくしは、この世界の人となりましょう。」


人?に、なる…?


僕は黙ったまま、彼女をじっと見つめ返した。


思ってもみなかったことを言われて、ただただ、驚いたんだ。


それは、不可能、ではない。

だけど、すごく、無茶なことだと思った。


「人、に、なるの?」


僕は確認するように、彼女に尋ねた。

その裏側には、まさか、冗談だよね、って気持ちがたっぷり詰まっていた。

けれども、彼女は、当然のように、きっぱりと、頷いた。


「はい。

 何かに宿れば、宿主に負担をかけてしまいますから。

 何にも負担をかけずに存在を保つには、人になるしかありません。」


いや、でも、だけど…


人になれば、彼女の精霊としての記憶は失われてしまう。

大精霊であっても、ただの人になってしまう。

もちろん、彼女は、ただの人、じゃないだろうけど。

怪我もするし、病気もする、そして、いつか命を終える、その運命を背負うということだ。


何故だかそれは、大精霊、という存在に対して、やってはいけないことのように思えた。


「…あまり、猶予はないのですわ、お兄さま。」


彼女は躊躇う僕に、まるで説得するみたいに言った。


「それに、わたくし、この考えを思い付いたとき、とても、わくわく、いたしましたの。」


君が、冒険心旺盛で、チャレンジ精神に満ち溢れているってことは、よく知ってる。

もしそうでなければ、君は、この世界に来ることすら、なかっただろう。

だけどさ。

それでもやっぱり、人になるなんてことは、無謀だと思うんだ。


「お兄さまは、大勢、精霊を人にしてくださいましたよね?」


前のめりに僕に迫る大精霊から、僕はちょっと、後退する。


いや、はい、やりましたよ?

それは、そのときは、それが一番いい、って思ったから。

だけどもさ。

彼らは、大、精霊、ではなかったわけで。

決して、君ほどに、世界を左右するほどのエエルを持っていたわけじゃ…


世界を左右するほどのエエル。

それは今、たった一本の、この細い若木にのしかかっている。

今にも、折れてしまいそうな、この細い小さな木に。


もしも。

この木が、折れてしまったら…

今度こそ、彼女は、消滅するしか、なくなるんだ…


さあ、選べ。

消滅か。冒険か。


そんな二択、選びたくはないけれど。


彼女の瞳は、もう心を決めていた。











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