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この世界には、迷いの森の魔法が通用しない相手がいる。
森の魔力よりもっと強い魔力を持つモノはもちろん。
純粋無垢な幼子。
強い意志を持つ勇者。
魔法を打ち消す力のあるモノ。
ステルステントなんかもその一例だし。
森の民の森は、大抵、強い結界で護ってあるのに、ときどき、幼子が迷い込んだりするのも、その一例だよね。
遠い昔。森の賢者の助力を得るために、森を訪れた勇者にも、森の民の結界は通用しなかった。
彼は、強い意志を持っていたんだ。
世界を救いたい、っていう。
だから、それは、稀に、起こることだった。
彼は、まだ、幼いが故に、森の魔法が効かなかったのか。
それとも、本当に、彼は、伝説の剣を抜いた勇者だったのか。
だけど、僕らは、怪物じゃないし、勇者が戦うべき敵でもない。
僕らはただ、ずっと平穏の続く世界を望んでいただけなのに。
ようやく思いの叶ったふたりの、婚礼式を挙げただけなのに。
アルテミシアの腕には、ほんの小さなかすり傷があった。
剣を避けたときについたんだろう。
その傷は本当に小さな傷だった。
ルクス辺りなら、唾を付けときゃ治る、とか言いそうなくらいの、本当に、小さくて浅い傷だった。
軽く癒しの術を使えば、すぐに跡形もなく消え去るくらいの、小さな小さな傷だった。
だけど。
どれだけ全力で術をかけても。
アルテミシアの特製の薬を塗っても。
その傷は治らなかった。
やがて傷は熱を持ち、その熱は次第にアルテミシアの全身に広がった。
毒消しも、ヘルバの泉の水も、大精霊の祈りさえ、効果がなかった。
熱に浮かされるアルテミシアを、僕らは見ていること以外、何もできなかった。
普段のアルテミシアなら、こんな傷を受けることなんかあり得なかった。
少年の剣は切っ先が安定せずにふらふらしていたし。
明らかに、剣をちゃんと扱えていなかった。
ただ、あのときは、動きにくい花嫁衣裳を着ていて。
ルクスもアルテミシアも、お互い以外は見ていなかった。
だったら、婚礼式なんて、しなきゃよかったんだろうか。
だけど、あれは、ルクスとアルテミシアが、本当に心から望んでいたことだった。
ようやく、ふたりの思いが叶った式だった。
疑似アマンがまずかった?
家の中にしときゃ、よかった?
花嫁衣裳なんか、作らなきゃよかった?
たくさんたくさんの、もしも、を考えたけど。
どれも、完璧な正解だとは思えなかった。
アルテミシアの腕についた傷はただの傷じゃない。
それだけは僕らにも分かった。
だけど、どういう傷なのか、どうすれば癒えるのか。
それはどうしても分からなかった。
僕らは、思い付く限りの、ありとあらゆる手を尽くした。
街の人たちも、何か効果のありそうなものを、いろいろと届けてくれた。
けれども、アルテミシアの具合は、いっこうによくならなかった。
ルクスはつきっきりで、アルテミシアの看病をした。
毎日、何度も、泉の水で傷を洗い、特製の薬をたっぷり塗って、清潔な布を巻きつける。
熱さましや、元気の回復する薬も、忘れずに飲ませた。
額にのせた布は乾く前に取り替えたし。
食欲のないアルテミシアを何とか笑わせて、ほんの一匙、お粥を食べただけで、大喜びした。
けれど、何をしても、アルテミシアの傷が癒えることはなかった。
アルテミシアのからだは、少しずつ、弱っていくばかりだった。
僕は、大精霊に話しを聞きに行きたかった。
大精霊なら、何か、いい方策を知っているかもしれない。
けれど、疲れ果てて眠る夜は、夢を見ることもなかった。
寝る間も惜しくて、いろいろ調べたり、慣れない調合もやった。
だから、眠るときは、力尽きて、夢も見ずに眠っていた。
外に出て、大精霊に直接会いに行くことも考えたけど。
ルクスとオルニスに、それはダメだと強く引き留められた。
この上、僕まで傷を負うようなことになったら。
アルテミシアを救う方法を探すことに支障が出る。
そう言われては、僕も、自分の考えを押し通すこともできなかった。
細くやつれていくアルテミシアは、まるで、消えゆく朝露のようだった。
ルクスのことも、軽々と持ち上げた両腕も、枯れた枝のように、少し力をかけただけで折れそうに見えた。
とうとう僕は、ルクスに言った。
あの、木の実を使おう、って。
何でも願いの叶う木の実。
あれは、あとひとつ、残っているはずだ。
今こそ、アルテミシアの命を願おう。
元通り元気にしてもらおう。
もちろん、これは無駄遣いなんかじゃない。
だって、アルテミシアだもの。
僕らの大切な、アルテミシアじゃないか。
だけど。
それでも。
ルクスは、首を縦に振らなかった。
「どうして!」
僕は、ルクスに掴みかかった。
その懐から、力づくで、木の実を奪おうとした。
だけど、僕の力なんか、ルクスに敵うわけがない。
僕の両手を片手で拘束して、ルクスは、叫ぶように言った。
「俺だって!
俺だって、使いたい!
だけど、アルテミシアが、それはだめだ、って言うんだ!
あの木の実は、そんなことに使うな、って!」
「そんなこと、って!」
僕は言い返そうとした。
だけど、できなかった。
ルクスはそのまま僕に縋りつくようにして泣いていた。
「お前、あいつを説得してくれよ?
頼むよ。
なんでもするから。
あいつさえ、生きててくれるなら、俺の命をやったっていいから!」
泣き崩れるルクスを、僕はただ、抱きしめることしかできなかった。
その夜。
アルテミシアは、久しぶりに、一緒のテーブルについた。
昔から、ずっと、変わらない、アルテミシアの席に、アルテミシアがいるのは、久しぶりだった。
「今日は少し、気分がいいんだ。」
不思議なくらい今日のアルテミシアは具合がよさそうだった。
熱もないし、ふらついてもいない。
少し痩せてしまったけど、こうして椅子に座った姿は、以前と少しも変わらない。
もしかしたら、このままよくなるのかもしれない、と、淡い期待を僕は抱いた。
だけど、心のどこかに、消せない染みのような不安も、感じていた。
「たくさん、食べてね。
君が具合悪いと、こいつら使い物にならなくて、本当、困っちゃうよ?」
オルニスは冗談めかして言いながら、テーブルに次々と食べ物を並べた。
使い物にならない、って言われた僕らは、慌てて、給仕を手伝った。
あたふたする僕らを、アルテミシアは、にこにこと見ていた。
そんなアルテミシアはとても、きれいだった。
今にも消えてしまいそうなくらい、儚くて、きれいだった。
泣きたくなるくらい、とても、とても、きれいだった。
「この間、大精霊と、話したんだ。」
アルテミシアは、ゆっくりと話しを始めた。
僕らは固唾を呑んで、その言葉を聞いた。
それは夢だろうとは誰も思わなかった。
ピサンリも言っていた。
大精霊と一緒に世界を見て回った、って。
アルテミシアもそんなふうに大精霊と会ったんだと思う。
大精霊は、アルテミシアにいったい何を言ったんだろう?
僕らは、一言一句、聞き漏らすまい、とからだを固くしていた。
「この傷は、周りのエエルを吸収し、破壊する性質を持っているんだそうだ。」
周りのエエルを吸収し、破壊する。
そういうものを、僕らは知っていた。
あの、古の勇者の捕らわれていた闇だ。
アルテミシアは布を巻いた腕を差し出した。
その布の下に、あの癒えない傷はあった。
「だから、いつまで経っても、この傷は治らない。
治そうとするエエルを、すべて奪ってしまうから。
それどころか、あたしのからだの中にあるエエルも、吸収され続けている。
だから、あたしは、こんなふうに、病に罹ったようになっていて、おまけに、それを治す術もないんだ。」
長く話すと息が切れるのか、アルテミシアは少し休んだ。
僕らはその間も、誰も話し出さずに、ただ、アルテミシアの話しの続きを聞こうと待っていた。
アルテミシアは、少し水を飲むと、また話し始めた。
「今は、大精霊にエエルを分けてもらっていて、そのおかげで、こうして起きてこられた。」
「そうか!
なら、エエルがあれば、いいんだな?」
いきなりそう言ったのはルクスだった。
ルクスは、その次にアルテミシアが何か言う前に、早口で言った。
「よし。分かった。
なんとかして、お前に、エエルを補給しよう。
きっと、できるはずだ。
大精霊だって、助けてくれる。
紋章を作るか?
護符にしてもいいな。
ずっと首からかけておくか。
いや、そうだ、指輪にしよう。」
それから大急ぎで書付を取り出した。
「フライングソーサーにつけてあるエエルの泉、あれ、どうだ?
お前につけらんないのか?
その辺の技術は、匠がいないと無理か。
よし。今から、匠を迎えに行くか。」
そう言うと、さっき取り出した書付を放り出して、今度は、いきなり席を立った。
「旅の支度だな。
いや、支度なんか、いらねえか。
よし。俺はこれから行くぞ。
いや、その前にまず、腹ごしらえだ。」
ルクスはきょろきょろとテーブルを見ると、立ったまま手づかみで、がつがつと食べ物を口に押し込み始めた。
「…落ち着け。ルクス。お行儀が悪いぞ?」
そのルクスに、アルテミシアはたしなめるように言った。
ルクスは、ぴたりと手を止めて、そのまま、叱られた子どものように立ち尽くした。
アルテミシアを見つめたその瞳に、じわじわと涙が浮かんできた。
アルテミシアはそんなルクスに、教え諭すように言った。
「…残念ながら、この傷の消費するエエル量は、ものすごく大きい。
そこらの小さな精霊の発生させるエエルじゃ、とても足りない。」
「そうか。
じゃあ、とてつもなくでっかいエエルの泉を作らないと、だな。
ますます、匠の協力が必要だ。」
汚した手をごしごしと服の裾でぬぐいながら、ルクスは、テーブルから離れようとした。
「こうしてる場合じゃねえ。
俺の腹なんか後回しだ。
よし。行くぞ。」
「ルクス!」
行こうとするルクスの背中に、アルテミシアの声が飛んだ。
声の調子は、さっきより少し鋭くなっていた。
ルクスはぴくりとして、そのまま立ち止まった。
「…この傷は、癒えることはなく、エエルを吸収し続ける。
あたしひとりを滅ぼして、傷もろともに消え去るなら、それでもいい。
だけど、そうならないかもしれない。」
「お前を滅ぼすだと?
そんなこと、俺が、させるわけないだろ?!」
くるっと振り返ったルクスは、ぼろぼろに泣いていて、それを見たアルテミシアは、にっこりと優しく微笑みかけた。
「ああ、そうだ。
そうだとも。
君は、あたしを滅ぼしたりしない。」
いったい、何を言い出すんだ?
そう思ったのか、ルクスの涙が止まる。
そのすきに、アルテミシアは言った。
「あたしは、アマンへ、渡る。」




