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影の怪物は、流れ込んできた大量のエエルを吸い込もうとしていた。
けれど、吸い込めば吸い込むほど、それは、怪物の中の紋章を再生させていく。
そうして、再生した紋章は、怪物の内側から、怪物自身を攻撃したんだ。
影の怪物は、悶え苦しむ様子はなかった。
悲鳴も、唸り声すら、漏らさなかった。
ただ、微動だにせず、そこに立ち尽くしていた。
それはとても、辛い光景だった。
けれど、僕は、目を逸らせずに、それを凝視していた。
千年続いた闇の呪いは、引き裂かれ、細かく千切れて、ばらばらになって消滅していく。
影というのは、何かの物体に光が当たったときにできるものだけれど。
影の怪物には、その影を作る元になった物体がない。
ただ、影だけの存在だった。
その影が千切れて消えていく。
消えた後には、もう何も残らない。
何も、残さない。
人を救い。世界を救い。戦ってきたのに。
膨れ上がった影は、小さく小さく砕けて、今にも消え去ろうとしていた。
その場所へ、ゆっくりと歩み寄る人があった。
平原の民の少女だった。
あれは、何かの儀式の衣裳なのだろうか。
なんだか、古めかしい格好をしていた。
シャツに重ね履きのスカート。
ベストに上着。
その上に襟巻とマント。
どれも、からだにぴったりと合っていて、きちんと採寸をして、彼女のためだけに作られたものだって分かるけど。
それにしたって、今の季節にあれは、暑いんじゃないかな、ってくらい、重ね着をしていた。
髪は、かっちりと固く結ってあって、頭には、あの花畑の花で作った冠を被っていた。
その手にも、同じ花の花束を持っている。
飾り気といえばそれだけだったけれど。
彼女は今、世界一美しく見えた。
わずかに残った影は、平原の民の背丈くらいの大さになっていた。
影はぴくりとも動かない。
もはや、何かの形はしていなくて、ただ暗い塊に見えた。
あんなにたくさんあった紋章も、役目を終えて、消え去っていた。
ただ、そこには、静寂だけ、残っていた。
それでも、影はまた動き出すかもしれない。
なにか、攻撃をしてくるかもしれない。
そっちへ行っちゃ危ない、って言うべきだって思ったけど。
声が出せなかった。
僕以外の人たちも、みんな、似たような状況だった。
ただ、みんなして、固唾を呑んで、彼女のすることを、見守るだけだった。
彼女は、影に手の届くほどに近付くと、手に持った花束から、花を一輪抜き出して、影のほうへ差し出した。
影にはもう、受け取ることはできないって思ったけど。
ふるふると震えながら、何かが伸びて、彼女の手の花をゆっくりと取った。
すると、彼女は、花を取った影の手?をさっと握った。
影は、ぴくりと動きを止めて、そのまま動かなかった。
世界の時間が止まった。
風も、音も、エエルも、時間も。
すべてが動きを、ほんの一瞬、止めていた。
それは、ほんのわずかな、瞬き一回分の何千分の一、くらいの時間だったけど。
再び、時間が動き出したとき。
そこには、小柄な少年がひとり、立っていた。
彼は簡素な服を身に纏い、手には花を一輪だけ持っていた。
少女は、彼の顔を懐かしそうに見つめた。
その瞳に涙が溢れだす。
ずっとずっと探していた人を、ようやく見つけて、彼からほんの一瞬も目を離したくない。
彼女のそんな気持ちが、言葉にしなくても伝わってきた。
彼女の持っていた花束を風がさらって、高く巻き上げていった。
高いところで花束は解けて、辺り一面に降り注いだ。
花の降るなか、少女は、両腕をひろげて、ゆっくりと彼を抱きしめた。
彼は、ひどく驚いたように目を一度見開いてから、その瞳を閉じた。
そうして、彼女をぎゅっと抱きしめ返した。
彼の閉じた瞳からも、涙が溢れ出した。
そこへ、もう一度、柔らかな風が吹いた。
風の中には、かすかに、鐘の音が混じって聞こえていた。
どこか、遠く。時間も、空間も、遠く遠く、隔てたところから、届いた祝福だった。
少年と少女の姿は、互いに溶け合うように、ぴったりと重なり、それから、消え去った。
後にはただ、小さな花冠と、一輪の花だけが、残されていた。
おお…
どこからともなく、誰かの呟きが聞こえた。
そこにあったのは、苦しみでも、悲しみでも、嘆きでもなかった。
歓び?安堵?いや、それも、ちょっと違ってる気がする。
嬉しくて、だけど、ちょっと淋しくて、泣きたくなるような、笑いたくなるような…
そういう気持ち。
ただの小さなため息だったけれど、その中に、僕は、いろんなものの混じり合ったような思いを感じた。
そして、多分、今、この場の全員が、仲間たちも、要の木も、ご先祖様たちも、そして僕自身も、同じ気持ちを、共有しているって思った。
振り返ると、すっかり顔見知りになったご先祖様たちがいた。
みんな、泣き笑いのような顔をしていた。
僕はご先祖様たちと、ひとりひとり、目を合わせた。
言葉は何も交わさなかったけれど、多分、それでよかった。
ただ、ご初代様だけが、いなくなっていた。




