表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう一つの楽園  作者: 村野夜市


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
445/474

445

影の怪物は、流れ込んできた大量のエエルを吸い込もうとしていた。

けれど、吸い込めば吸い込むほど、それは、怪物の中の紋章を再生させていく。

そうして、再生した紋章は、怪物の内側から、怪物自身を攻撃したんだ。


影の怪物は、悶え苦しむ様子はなかった。

悲鳴も、唸り声すら、漏らさなかった。

ただ、微動だにせず、そこに立ち尽くしていた。


それはとても、辛い光景だった。

けれど、僕は、目を逸らせずに、それを凝視していた。

千年続いた闇の呪いは、引き裂かれ、細かく千切れて、ばらばらになって消滅していく。


影というのは、何かの物体に光が当たったときにできるものだけれど。

影の怪物には、その影を作る元になった物体がない。

ただ、影だけの存在だった。


その影が千切れて消えていく。

消えた後には、もう何も残らない。

何も、残さない。


人を救い。世界を救い。戦ってきたのに。


膨れ上がった影は、小さく小さく砕けて、今にも消え去ろうとしていた。


その場所へ、ゆっくりと歩み寄る人があった。

平原の民の少女だった。

あれは、何かの儀式の衣裳なのだろうか。

なんだか、古めかしい格好をしていた。


シャツに重ね履きのスカート。

ベストに上着。

その上に襟巻とマント。

どれも、からだにぴったりと合っていて、きちんと採寸をして、彼女のためだけに作られたものだって分かるけど。

それにしたって、今の季節にあれは、暑いんじゃないかな、ってくらい、重ね着をしていた。


髪は、かっちりと固く結ってあって、頭には、あの花畑の花で作った冠を被っていた。

その手にも、同じ花の花束を持っている。

飾り気といえばそれだけだったけれど。

彼女は今、世界一美しく見えた。


わずかに残った影は、平原の民の背丈くらいの大さになっていた。

影はぴくりとも動かない。

もはや、何かの形はしていなくて、ただ暗い塊に見えた。


あんなにたくさんあった紋章も、役目を終えて、消え去っていた。

ただ、そこには、静寂だけ、残っていた。


それでも、影はまた動き出すかもしれない。

なにか、攻撃をしてくるかもしれない。


そっちへ行っちゃ危ない、って言うべきだって思ったけど。

声が出せなかった。

僕以外の人たちも、みんな、似たような状況だった。

ただ、みんなして、固唾を呑んで、彼女のすることを、見守るだけだった。


彼女は、影に手の届くほどに近付くと、手に持った花束から、花を一輪抜き出して、影のほうへ差し出した。

影にはもう、受け取ることはできないって思ったけど。

ふるふると震えながら、何かが伸びて、彼女の手の花をゆっくりと取った。


すると、彼女は、花を取った影の手?をさっと握った。

影は、ぴくりと動きを止めて、そのまま動かなかった。


世界の時間が止まった。


風も、音も、エエルも、時間も。

すべてが動きを、ほんの一瞬、止めていた。


それは、ほんのわずかな、瞬き一回分の何千分の一、くらいの時間だったけど。


再び、時間が動き出したとき。

そこには、小柄な少年がひとり、立っていた。

彼は簡素な服を身に纏い、手には花を一輪だけ持っていた。


少女は、彼の顔を懐かしそうに見つめた。

その瞳に涙が溢れだす。

ずっとずっと探していた人を、ようやく見つけて、彼からほんの一瞬も目を離したくない。

彼女のそんな気持ちが、言葉にしなくても伝わってきた。


彼女の持っていた花束を風がさらって、高く巻き上げていった。

高いところで花束は解けて、辺り一面に降り注いだ。


花の降るなか、少女は、両腕をひろげて、ゆっくりと彼を抱きしめた。

彼は、ひどく驚いたように目を一度見開いてから、その瞳を閉じた。

そうして、彼女をぎゅっと抱きしめ返した。

彼の閉じた瞳からも、涙が溢れ出した。


そこへ、もう一度、柔らかな風が吹いた。

風の中には、かすかに、鐘の音が混じって聞こえていた。

どこか、遠く。時間も、空間も、遠く遠く、隔てたところから、届いた祝福だった。


少年と少女の姿は、互いに溶け合うように、ぴったりと重なり、それから、消え去った。

後にはただ、小さな花冠と、一輪の花だけが、残されていた。


おお…


どこからともなく、誰かの呟きが聞こえた。

そこにあったのは、苦しみでも、悲しみでも、嘆きでもなかった。

歓び?安堵?いや、それも、ちょっと違ってる気がする。


嬉しくて、だけど、ちょっと淋しくて、泣きたくなるような、笑いたくなるような…

そういう気持ち。


ただの小さなため息だったけれど、その中に、僕は、いろんなものの混じり合ったような思いを感じた。

そして、多分、今、この場の全員が、仲間たちも、要の木も、ご先祖様たちも、そして僕自身も、同じ気持ちを、共有しているって思った。


振り返ると、すっかり顔見知りになったご先祖様たちがいた。

みんな、泣き笑いのような顔をしていた。

僕はご先祖様たちと、ひとりひとり、目を合わせた。

言葉は何も交わさなかったけれど、多分、それでよかった。


ただ、ご初代様だけが、いなくなっていた。












評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ