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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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あたりはしんと静まり返った。

この森には、鳥や虫の声がしない。

生き物のざわめく気配もない。


風すらも、じっと動きを止めて、まるで成り行きを伺っているかのようだった。

木の葉の揺らぎさえない世界は、すべての動きを、止めていた。


ピシッ…ピシッ…


静寂の中に、その音だけが響く。

それは、勇者が今も受け続けている痛みの音に聞こえた。


「…もう、そんなふうに、痛い思いをするのは、やめようよ…」


耐えかねて、僕は思わずそう呟いていた。

僕は勇者から目を離せなかった。

みんなのために戦い、傷ついて、怪物になってしまった勇者。

勇者は、自分の欲のために、戦ったんじゃない。

ずっと、痛いのも苦しいのも、誰かのために、耐えてきたんだ。


膨れ上がった影は怪物のように恐ろしいけれど。

僕はこの勇者を怖いとは、もはや思わなかった。


僕は勇者にむかって、両手を広げ、胸を開いた。

彼をこの胸に抱きしめてあげたいって思った。

そんなことをしても、彼の苦しみは消えないかもしれないけれど。

人の体温って、なんだかほっとするものだから。

ほんのちょっとでも、彼の心を休ませてあげられたらと思った。


だけど。

僕はやっぱり、甘かった。


「危ない!」


アルテミシアの悲鳴のような叫び声と、目の前が暗くなったのとは、ほとんど同時だった。


突然、視界を塞がれて、いったい何が起こったのか分からない。

…荒い、息遣いが聞こえる…

熱くて、きゅうくつな感じ…


目の前にあったのは、人の胸だった。

僕は、しっかりとその人に両腕で抱きかかえられていた。


「…油断、したな…」


へへっ、と笑う声と一緒に、ぽたぽたと汗の雫が降ってきた。


「…ルクス?」


ルクスは正面から僕を抱きかかえるようにしていた。


「怪我は?」


そう僕に尋ねるルクスの声は、どこか苦しそうだった。


「ないよ?」


「…よかった。」


そう言ってため息を吐いたルクスは、そのまま力尽きるように、ぐったりと僕にもたれかかった。


ルクスを支えようと、その背中に手を回したら、ぬるっとした手触りを感じた。

はっとして、自分の手のひらを見る。

ルクスの肩越しに見えた僕の手のひらは、ルクスの血で赤く染まっていた。


「ルクス!」


ルクスの背中はぱっくりと裂けて、そこから血が溢れ出している。


呑気に、怪物にむかって油断した僕を、ルクスは怪物から護ってくれたんだ。

ようやくそれに気付いた。


「ごめん!

 ごめん、ルクス!」


僕はルクスを抱きかかえると、ありったけの力を使って、治癒の魔法をかけた。

自分の中のエエルを全部、使ってもいいと思った。


だけど。

かけるそばから、僕のエエルは、ルクスじゃない方へと、吸い取られていった。


「?!じゃま、しないで!」


僕は叫んだ。

今は君の相手してられない。


影の怪物は、微動だにせず。

ただ、じっと立ったまま。

僕のエエルを吸い取り続けていた。


悔しかった。

情けなかった。

腹が立った。

悲しかった。


君はかわいそうかもしれない。

だけど、今は、僕の大事な友だちが、大怪我をしているんだ。

ルクスを早く、治さないと。


ルクスが怪我をしたのは、僕のせいだ。

僕はまた、やってしまった。

もっと、用心するべきだったのに。

そうして、僕の大事な人を、傷つけてしまった。


後悔しても、なんにもならない。

分かっていても、後悔の気持ちは、溢れ出す。

だけど、今は、後悔すらも、後回しにしなくちゃ。

治癒の魔法には、余計な感情は、禁物だ。


アルテミシアは、再び、弓で怪物を射った。

怪物の気を僕らから逸らせようとしてくれていた。

だけど、怪物は微動だにせず、ただ、僕のエエルを吸い取り続けた。


「…くっ…」


ルクスの怪我はとても酷くて、早く血を止めないといけない。

だけど、治癒の魔法は、ルクスに届く前に、ことごとく、あの怪物に吸い取られてしまう。


そのときだった。


リン、と涼やかな音と共に、要の守の静かに呟く声がした。


たった一言。


発、と。


その途端、僕のエエルを吸い取る怪物の力が、ふっと途切れた。

ほっとして、僕は最大出力で、ルクスに治癒の力を送る。

淡い優しい光に、ルクスと僕自身も、包み込まれた。


目の端に、ブブを庇うように抱えるアルテミシアと、すっと立つ要の守の姿が映った。


要の守は、すごく姿勢よく、真っ直ぐに立っていた。

あの、ひょーんと立つ目印の木にそっくりだって思った。

あの手の構えは、なんだろう?

もしかしたら、古代の魔法、なのかな…


眩しい光がさしてきて、そちらを見ると、影の怪物は完全に静止していた。

影には無数のヒビが入っていて、その隙間から、幾筋もの光がさしてくる。

とても眩しくて、直接見ていられないくらいだけど、それでも、僕は、それを見ていた。


ヒビは少しずつ拡がって、中の様子が見えている。

影の怪物の中で、いくつも、くるくると車輪のように、紋章が回っていた。

その周りを、護符たちも、飛び回っている。


怪物に吸い取られた紋章と護符だった。


紋章も護符も、怪物に吸い取られて、そのお腹の中で、エエルに分解されたとばかり思っていたけれど。

それはまだ形を残して、そうして、怪物のからだの中で、一斉に魔法を発動させていた。


否。


紋章も護符も、多分、一度は、分解されてたんだ。

けれど、それはまた、再生した。

古代の強力な魔法の元に。


その証拠に、今も、僕の目の前で、ひとつ、また、ひとつと、怪物のからだの中の塵が、紋章の形を取るのが見えていた。


僕ら森の民のご先祖様たちの使っていた魔法は、砕けた塵から、元の姿を再生できたという。

失われた命すら、取り戻していたそうだ。

それほどの強力な魔法は、大量のエエルを使う。

だから、いつの間にか、そんな魔法は、この世界から失われていった。


要の守なら、そんな古代の魔法を知っていてもおかしくはなかったけど。

いったい、その大量のエエルはどこから…


はっとした。


いつの間に?


頑丈に取り囲まれていた壁に、小さな穴が開いていた。

そう、人、一人分、くらいの。


結界の森に植えた、九十九のアニマの木。

そして、百本目の要の木。


百の木の作った網目のような経路に、エエルが流れ込む。

そして、それは、一気に、壁にできた小さな穴から、流れ込んできていた。






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