443
そのときだった。
へっ、と小さく笑う声がした。
「ざまぁねぇな、その姿。」
そう呟いて勇者を見つめるルクスの瞳は、けれど、笑ってはいなかった。
「周りのエエルをことごとく取り込んで、膨れ上がったあんたのそれは、エエルの無駄遣いじゃないのか?」
「チ、ガウ…ボク、ハ…ミンナヲ…マモルタメ…」
巨大に膨れ上がった影は、口をうまくきけないらしかった。
割れてくぐもった聞き取りにくい声から、僕らは言葉をすくい取ろうとした。
けれど、その姿になった勇者は、もはや、言葉ではなく、力で、僕らに分からせようとした。
ぶんっ、と影の怪物は、腕を振り回した。
間一髪のところで、僕は、ルクスに抱えられて、後ろに飛び退ったけれど。
あのままぼんやりしていたら、どうなっていたか分からない。
すかさずフライングソーサーに飛び乗って、間合いを取ったアルテミシアが、連続して弓を射た。
けれど、矢はすべて、影の怪物を素通りして、そのむこうへと飛び去った。
「やはり。
ただの攻撃は効かない。」
アルテミシアは肩掛けカバンのなかを探ってため息を吐いた。
カバンに入れてあった大量の護符は、矢につけて飛ばすためのものだったのかもしれない。
けれども、すべて怪物に奪われて、一枚も残っていなかった。
時間をかけて準備してきたはずの物が、ことごとく、無効にされてしまっていた。
「…ミンナヲ…マモル…タメ…」
怪物はそう繰り返しながら、腕を振り回し続けた。
僕らは、その腕に当たらないように、逃げ回るだけだった。
要の守も、ブブも、ただ、ひたすら逃げていた。
「ミ、ンナヲヲヲヲヲヲ…マ、モルゥゥゥ…タメェェェェェ…」
弓はまったく効果がない。
護符も紋章も、すべて、奪われてしまった。
これはもう、戦いとは言えなかった。
ルクスは剣を抜かなかった。
ただ、僕を抱えて逃げ回っていた。
弓の効かない相手なら、剣も効果はないのかもしれないけれど。
ルクスは、まったくの無抵抗で、ただ、逃げるだけだった。
ステルステントを使えば、目の前の怪物から逃げることもできるかもしれない。
ここは、いったん撤退して、もう一度作戦を練り直して…
僕はそう進言したかったけど、そんなことを口にする余裕なんかなかった。
ただ、ルクスに抱えられながら、逃げるのに精一杯だった。
暴れれば暴れるほど、怪物の中には新しい力が湧き上がってくるようだった。
怪物は両手を差し上げ、咆哮を上げた。
「チ、カラ…ガァァァ、イルゥゥゥ…」
そのすきに、ルクスは僕を片腕にぶら下げて、もう片方の手で、要の木の枝にぶら下がった。
要の守とブブも、同じところに避難してきた。
高いところに逃げた僕らを、怪物は一瞬、見失ったようだった。
その位置から、怪物を見下ろして、ルクスは静かに尋ねた。
「そのためなら、あんたは、いくらでもエエルを使っていい、ってか?」
アルテミシアは、怪物の注意を逸らせるように、僕らとは反対側へ回って弓を連射した。
矢は怪物にダメージを負わせることはなかったけれど、注意はそちらへ引き付けられた。
怪物は、アルテミシアへとむかって行きながら、叫んだ。
「イイ!
…ボク、ハ…ミンナヲ…マモル…」
アルテミシアは、怪物を引き付けるだけ引き付けてから、間一髪のところで身を躱した。
怪物は焦れたように、そのアルテミシアを追いかけた。
フライングソーサーは、アルテミシアのからだの一部のようだった。
ひらりひらりと身を躱し、ときどき弓を射ながら飛ぶアルテミシアは、戦う舞姫だった。
その見事な動きに、僕は、こんな状況なのに、感動していた。
アルテミシアは、僕らを守るために、怪物の注意を自分に引き付けていた。
怪物に怪我をさせられないか、とても心配だったけど。
鮮やかなアルテミシアの動きを見ていると、もしかしたら、心配することは、かえって、アルテミシアに対して失礼かもしれない、とすら思えた。
それでも、心配なのはどうしようもなかったけど。
「目の前の誰かを守ろうとするあんたの行動で、目に見えないところの誰かの命を奪ってもいい、って?
あんただって、やってることは同じだ。」
ルクスがそう言ったときだった。
ぴたり、と怪物の動きが止まった。
ピシッ!
かすかに、氷にヒビが入ったときのような音がした。
「あんただって、そうやって、見えないところの誰かの命を奪ったんだ。」
怪物は止まったまま動かない。
ピシッ!ピシッ!
ヒビが連鎖するように入っていく音だけ聞こえた。
ルクスはひらりと木の枝の上に立つと、僕をそこへ座らせた。
そうしてそこから、怪物に話し続けた。
「永遠不変の正義なんてもんは、この世に存在しねえ。
勇者やってたんなら、あんただって、そんなことは百も承知だったんだろ?
なのに、なに、悪足掻きしてんだ。」
そう言ったルクスは、とても悲しそうな目をしていた。
怪物はすっかり動きを止めたままだった。
ルクスの言葉を聞いているのかいないのか、ただ、そのままそこへ立ち尽くしていた。
「勇者なんか、やるもんじゃねえ。
あんただって、何べんも、そう思ったんだろ?」
ピシッ!ピシッ!
ヒビが入る音は大きくなったり小さくなったりしながら続いている。
動かなくなった怪物は、低く唸った。
けれど、その声は、もう言葉を形作らなかった。
「あんたが、悪、と断じた連中も、誰かにとっちゃ、正義だ。
あんたの目の前で消滅した連中は、そいつらには見えてなかった。
あんたが、あんたの目の前の連中を救うために使ったエエルで、どこかの誰かが消滅したように。」
ヲヲヲヲヲ…
低い唸りが響き渡った。
それは、低く、重く、影の怪物の慟哭のようだった。
「…なんてことも、あんたには、分かってたんだろ?」
ルクスは小さくそう付け加えた。
影の怪物を見るルクスの目に、怒りはなかった。
ただ、深い悲しみだけ、湛えていた。
「そうやって、救ったやつらは、ちゃんと、幸せになったのか?
戦いに終わりなんかなかったんだろ?
戦えば戦うほど、脱け出せない泥沼に落ちるしかなかった。
そうじゃないのか?」
それは、勇者のことを言ってたんだろうか。
それとも、ルクス自身のことを、言ってたんだろうか。
だけど、多分。
誰より、勇者の悲しみを分かるのは、ルクスだった。




