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と、ふと、勇者は、顔を歪めて、ふんふん、と何かの匂いを嗅ぐようにした。
そうして、これは!と、なにか、とても酷いことを見つけたように顔を上げた。
「いけない、また、やつらが…」
そう言いかけて、ふと、僕らのほうを見て、はっとした顔をした。
「…それ、は…?」
勇者が指さしたのは、ルクスが背負っていた紋章だった。
「え?あ、これは…」
まさか、あなたをやっつけるために持ってきたものです、とも言い難い。
言い淀んだルクスを、勇者は睨みつけた。
「そうか!お前も、やつらの仲間か!」
「やつ、ら…?」
というのは、誰を指しているのかは分からないけど。
少なくとも、勇者の仲良しじゃ、なさそうだった。
勇者は、いきなり後方に飛び退ると、剣を取って身構えようとした。
けれど、勇者の腰に剣はなく、勇者の手は素通りした。
「あっ!
くそっ!!」
姿勢を低くした勇者は、素手のまま戦おうというように身構えた。
僕らは、その一連の勇者の動きを、ただ、呆然と見ているだけだった。
さっきまで、のんびりした少年に見えていた勇者は、今やすっかり別人のようだった。
明るく輝いていた瞳は、昏い色に染まり、にこにこと微笑みを浮かべていた口元は、嫌悪の感情に歪んでいる。
全身からは、敵意と殺気が、湯気のように噴き出していた。
「お前も!」
勇者はアルテミシアの肩掛けカバンを指さした。
そこには、板切れに描いた護符がたくさん入っていた。
「お前も!!」
勇者は要の守の手に持った護符を指差した。
それから、勇者は僕を見た。
僕はとりあえず、紋章や護符の類は持ってなかったんだけど。
「お前も!」
と勇者は僕も睨みつけた。
「何故、そのように、エエルの無駄遣いをする!
そのせいで、今も、この世界の誰かが、命を落としているんだぞ!」
いや、そんなことはない、と言いそうになったけど。
勇者の時代はそうだったんだ、と思い直した。
そう。だから、勇者は戦っていたんだ。
「いつもいつもいつも。
割りをくうのは、世界の隅っこに棲んでる弱い連中だ。
お前らは、人が、エエル不足で消滅するのを見たことがあるのか?
見慣れたいつもの風景が、突然昏い闇に閉ざされるのを見たことがあるのか?」
それは、勇者の時代に本当にあったことなんだろう。
だからこそ、勇者は、戦いの中へと足を踏み入れていったんだろう。
人が消滅する、ほどの事態は、僕らは見たことはなかった。
風景が闇に閉ざされる、のも見たことはなかった。
想像しただけで、それは壮絶な光景だった。
考えただけでも、恐ろしくて、足が震えだした。
勇者の憤りも、戦う気持ちも、だから、分からなくはなかった。
だけど、今のこのときには、勇者にも、僕らにも、もう戦う理由はなくなっていた。
「勇者よ。
落ち着いてください。
今は、あなたの戦っていた時代とは違う。
世界にエエルは満ちています。」
静かにそう言ったのは、要の守だった。
要の守は、敵意のないことを示すように、両腕を開いて勇者のほうへ一歩、歩み寄った。
「心配しなくても、エエルの不足で命の消えることは、もう、ありません。」
けれど、勇者は頑なに首を振った。
「何を言う。
お前らの言うことなど、信じられるものか!」
「いや、本当に大丈夫なんだよ?」
僕は要の守の隣に並んだ。
「そのために、ヘルバは、大精霊を召喚したんだ。」
世界にエエルさえたくさん満ちれば。
ヘルバも僕らもそう思っていた。
そして、ヘルバはそれを実現したんだ。
「今は、世界に、エエルは満ちている。
満ち過ぎて、あっちこっち、混乱しちゃってるくらいだよ。」
冗談めかして言ってから、ひどく後悔した。
今、この場に、笑いたい人なんて、ひとりもいなかったから。
誰も笑わない酷く空虚な場所に、僕の言葉だけ、ひらひらと薄っぺらく漂った。
「ねえ、だから、もう、戦いなんて、やめよう?」
僕は心の底から懇願した。
この言葉は、軽く、吹き飛ばされないようにしたかった。
けれども、勇者には、要の守の言葉も、僕の言葉も、届かないみたいだった。
言葉の意味は、通じているはずなのに。
僕らの言葉は、勇者の心には、響かないんだ。
僕はルクスとアルテミシアを伺うように見た。
ふたりとも、悲し気な表情で、勇者を見つめていた。
ちらっと目の端に要の守も映った。
要の守は、この場の誰より、悲しそうで、悲痛、と言ってもいいくらいの目をして、勇者をじっと見つめていた。
誰も、勇者と戦いたくないんだ。
だけど、勇者は、もう戦いを始めてしまっていた。
勇者は拳を握ると、強く地面に叩きつけた。
ぉぉぉぉぉ…
低い唸り声のようなものが聞こえたかと思うと、勇者の足元に、ぐるぐると昏い闇が渦を巻いた。
アルテミシアのかばんから、軽い護符がひらひらと闇に吸い込まれていった。
要の守の手に持った護符も、ぱたぱたと風に煽られるように奪われた。
「ふふ、ふふふふふ…」
勇者は僕らを睨みながら、昏い笑みを浮かべた。
ルクスは、紋章を奪われないように、闇から庇っていた。
けれど、闇の吸引力は、とてつもなく強くて、ルクスにも守りきれそうになかった。
「くそっ。」
ルクスは悔しそうに歯を食いしばる。
額には汗が流れていた。
僕は気持ちばかり焦るのに、何も、効果的なことはできそうになかった。
極端にエエルの少ないこの場所じゃ、魔法は何も発動しない。
せめて、勇者に言葉をかけたくても。
話しを聞くつもりのない相手には、僕の言葉は欠片も届かない。
それでも、僕は、ほんの少しでも、言い続ければ、何か届くかもしれないと、言葉を続けた。
「君が、みんなのために苦しい思いをして戦いを続けたことは、分かっている。
だけど、もう、それは、終わったんだ。
今、この世界がどうなっているのか、ここから外に出て、君自身の目で確かめてよ。
そうすれば、きっと、安心して、もうこれ以上、辛い戦いなんか必要ない、って分かるよ。」
固く凍り付いた勇者の心に、針の先ほどの傷でもいい。
僕はそう願ったけれど。
勇者の心は、伝説の鋼のように固く、僕の針は、髪の毛よりも柔らかかった。
つまりは、僕の言葉なんて、吹き飛ばされる塵よりも、存在感はなかったんだ。
アルテミシアや要の守の護符を吸った闇は、一回り大きくなった。
すると、勇者の周りに、昏い影が漂い始めた。
「いけない。
このままじゃ、闇に呑み込まれてしまう!」
僕は悲鳴を上げた。
けれど、僕を見た勇者は、昏い満足感に満ちた目をしていた。
「かまわないさ。
それで、世界が救われるなら。
僕は、闇にでも、なってやる!」
ごごごごご~~~。
ものすごい風が渦を巻いた。
堪えきれずに、ルクスの紋章たちも、闇に吸い込まれていった。
っごっごっごっごっご…
大量の護符と紋章を吸い込んだ闇は、ますます昏く膨れ上がった。
勇者もまた、完全に闇と同化し、その姿は、巨大な影へと変わっていった。




