67-勝って。
誰も知らない世界にて。
この最果ての光景は誰の目にも映らない。この短い会話は誰の耳にも届かない。このふざけた世界に、すべてを創る者とすべてを壊す者たった二人きり。
イングリット・アルマヴィヴァはどうすることもできなかった。ただ力なく膝から崩れ落ち、瓦礫に打った膝の痛みに小さく呻き、ついには上半身を支える気力すら溶けて流れ落ちた。
細い両腕が地に落ち、それでもかろうじて薄っぺらい身体を支えてくれた。荒れ果てた床面に無様に四つん這いになり、小さな手のひらでここがもう終わってしまった城の一部だと思い出す。
ここは、なんて暗い場所なんだろう。ここは、なんて冷たい空間なんだろう。ここは、なんて寂しい世界なんだろう。
真下を向いた四つん這いのイングリットの視界に、じゃりっと瓦礫を踏みつける大きな足が現れた。こんな荒んだ世界に似合わない、なんてきれいな素足なのか。イングリットは不思議に思った。
「己一人になるのは初めてか」
破壊の神は耳にようやく届くほどのかすかな声で言った。
「虚空の世界に一人きり。どんな気持ちか、教えてはもらえないか」
ああ、そうか。あたしは一人きりなんだ。イングリットは思い知った。
「哀しみか」
まるでどこかに打ち捨ててきたもう一人の自分のような魔王は滅んだ。
「淋しさか」
何でも知っている頼もしささえ感じられた黒い勇者の偽物も消え失せた。
「それとも、解放された晴々しい気持ちか」
ずっと自分のために戦ってくれて、ずっと自分のために勝ち続けてくれた勇者カナタは手の届かない場所へ行ってしまった。カナタは、もういない。
「もはや何も感じない、か」
これは哀しみではない。冷たい瓦礫に埋もれるように跪き、イングリットは破壊の神の問いかけに答えた。
あたしの中に哀しみがあるのなら、涙が零れ落ちるはず。だからこれは哀しみではない。
しかし、イングリットの声は口から外に漏れ出すことはなかった。
「それもいいだろう」
これは淋しさではない。イングリットはさらに破壊の神の問いかけに答えた。
ずっと、独りだったから、今更淋しくなんかない。
やはり、それは声にならなかった。
「創造主よ、終わりにしよう」
あたしは解放なんかされていない。誰にも囚われたことなんてないから。
イングリットの心の声は、ついに破壊の神には届かなかった。
「あなたが消えれば、すべて消え去る。何もかも、おしまいだ」
破壊の神は創造主へとその消し去る拳を振りかざした。これを振り下ろし、創造主たるイングリットの頭を打ち砕けば、無常のままにすべて消失する。イングリットはこことは違う世界に転生し、また孤独と苦しみに満ち満ちた人生を歩んで行くことだろう。創造主を失ったこの世界はぱちんと消えるシャボン玉のように弾けて散り散りになり、破壊の神自身もまた消失の渦に巻き込まれて忘却の彼方へ墜ちるのみだ。
それもまた、創造主の意思だ。破壊の神は拳を一息に振り落とした。
イングリットはそれを見て、しかし、目は閉じなかった。破壊を受け入れなかった。
「あたしはまだ、あたしのカナタの戦いを見届けてない」
もう少し、夢を見ていたい。
イングリットは強く思った。
破壊の神のすべてを消し去る拳がイングリットの頭を撃つ、その瞬間、一本の腕が虚空より生まれ出でて、神なる拳を鷲掴みに受け止めた。
まばゆい光が弾けて薄闇を一気に払い除ける。破壊の神の攻撃を止めた腕はさらに光の影を伸ばし、やがて力強く人の形を成した。ヒーローの再登場だ。
イングリットのツヨイココロが喚んだ勇者は、一歩強く大きく足を踏み出して、ヒーローらしくよく通る声で言い放つ。
「俺が勇者カナタだが、何か用か?」
勇者の声に破壊の神は応える。
「おまえの役目は終わったと言ったはずだ。もう何の用もない──」
「てめえじゃねえよ。俺は、ずっと、イングリットさんに呼びかけていたんだ」
神の声を遮るヒーロー。
はっとして顔を上げるイングリット。ヒーローは破壊の神の腕を捻り上げながらちらっと彼女の方へ振り返った。
「ね、イングリットさん。俺に何か用は? 俺にできることある?」
イングリットは今にも泣き出しそうなくしゃくしゃの笑顔で言った。
「勝って」
「うん。いいよ」
勇者カナタはニコッと微笑んだ。




