第1話(8/8)
月面に立ったまま、私たちの視線が交差する。
一人は、明星晩鐘という人だ。飲んだくれの、ギャンブラーである。元プロだが、コーチ経験はない。……私のコーチになる予定の人だ。
もう一人は、私だ。契約が終わった元プロ選手である。なんとか新しいチームに入れそうなところだ。条件は指定のコーチをつけること。
で、さっそくコーチに反発している。
「アイデアは面白いと思います」
でも、それだけだと思う。
「賭けに出て、どうするんですか。もっと普通に」
「普通にやっても勝てへんから、困ってんちゃうん?」
「1回や2回うまくいっても仕方ないでしょう。気づいてますよね? ログを見れば、サウンドアクセシビリティを使ってるのはバレます」
「ログが見れるのは試合のあとやん」
「試合中に気づく人もいますよ。見えない攻撃に反応するんだから」
明らかに不自然で、なにか仕掛けがあると考えるのは当然だ。
フロートのバーチャル空間には、匂いも味もない。見えても、触れてもいないのに反応できるとしたら、消去法で音だとわかる。
「それじゃ結局、プロを続けられないじゃないですか」
「ほーん」
じとっとした目で晩鐘さんはあごに手をやった(嫌な感じ!)。
「ほな、キミはプロを続けるのが目的なんや?」
「あたり前でしょう」
「せやったら、プロを続けられるなら、勝てなくてもOKなんやな」
「え?」
何を言ってるのか、分からなかった。
「キミの目的はプロを続けることなんやろう?」
そうだ。
だってプロじゃないと、練習に集中できない。
兼業の選手もいるけど、どう考えても時間が取れない。そもそも私みたいな人間からすれば、普通に働くこと自体すごいことだ。毎日会社に行って、何時間も働いてる人が一番偉いと思ってる。
「練習のために──、あれ、でもそれじゃ手段か」
こんがらがってきた。
「世界チャンピオンになると思って、プロになったんちゃうの?」
そうだ。
バカだったから。
他ならぬ自分であれば、世界の頂点に立ってもおかしくない。そう思っていた。こうも思っていた。いずれそうなる、と。
「でも今は──」
「じゃあ負けんねんな」
「え?」
「チャンピオンだけやん。負けなしの可能性あるのって。それ以外のやつは絶対どっかしらで負けんねんから」
負ける?
私が?
立ち眩みのような感覚がある。頭が急に重くなって、まっすぐ立っていられなくなる感じだ。仮想世界では、珍しい感覚。
私は、これまでさんざん負けてきた。今年の世界大会の予選もあっさりと終わった。下馬評では、私はまったく勝てると思われてない。勝てば勝つほど驚かれるような、プロの中でも弱いほうだと思われてる。
「負けていいんや」
「いいわけない」
いつもより低い声が出た。
だって、負けていい勝負なんてあるわけない。
「でも諦めてるやん」
「──諦めるなんて、ありえない」
勝てそう、はある。負けそう、もある。だが負けていいなんて、諦めていいなんてありえない。勝負の世界に、それだけはない。
試合が終わるまで、結果はわからない。
「でも相手がチャンピオンで、自分はゼロ点、相手はマッチポイント。このシチュエーションなら諦めるやろ?」
「なんで?」
「覚醒して強くなる、とかないやん」
そうだ。人は急には強くなれない。何かに気づいて、急成長したように見えることがあっても、それは勘違いだ。地力がある人が、力を発揮できていなかったパターンである。才能が開花したのではなく、地中で育っていた実力が、表に出てきただけのこと。
実力差は、急にはひっくり返らない。
でも。
「次の瞬間、相手が心停止するかもしれない」
この場合、相手の棄権となり、私が勝利することになる。例え、棄権がなければ相手が勝っていただろうと予想できても、だ。所詮、予想は予想に過ぎない。
勝負の結果に、予想なんて関係ない。
「ふ……はっはっは!」
今日聞いた中で、一番大きな笑い声だった。大きく口を開けて、顔を下に背けて、目は閉じていて、笑いじわがもっと深くなっていた。
「サウンドアクセシビリティはいい武器になるで。独自性があるし、対策っちゅうても打てる手には限りがある」
「でもそれだけじゃ」
「それだけちゃうって」
晩鐘さんが両目をつむった。……もしかして、ウインクしたかったのか。
指摘したほうがいい?
「ええか、サウンドアクセシビリティは武器のひとつや。キミの才能やスペックから、相性のいい武器を逆算していくつか磨く。使いどころは考えあかんけどな」
「いくつかって、結局……」
長続きしないのでは?
「ええやん。だってプロじゃなくなっても続けるんやろ?」
「む」
「負けてええの?」
「負けたくないです。誰にも、いつでも」
「ほな、なるしかないなぁ。世界チャンピオン」
心臓の音が、聞こえた気がした。
客観的に見れば、ただの実績のない下り坂のアラサーだ。大会に出たときもアマチュアに勝つのは普通で、プロに勝ったら驚かれる。トーナメントの端役だ。私の物語に時間を使うほど、みんな暇じゃない。
「……私が勝つなんて誰も考えてませんよ」
晩鐘さんは、右腕を持ち上げ、ぴんと伸びた人差し指を地球に向ける。
「それが、世界最大の隙になる」
指の先、地球を見る。デジタル上に再現された地球は、画像を貼り付けただけのハリボテだ。でもリアルの地球にはたくさんの人がいて、それでも、誰も私を見ていない。
……世界の隙、いい言葉だと思う。なぜって、戦う人の言葉だ。もし世界を相手にするなら、まずじっくりと観察する。敵は強大だけど、完璧ってことはない。
(だったら、私が勝ったっていいよな)
負け犬だって、勝つことはある。
「大穴狙いですねぇ」
「ギャンブラーやからなぁ」
へらへらと無職のおっさんが二人で笑う。世界を映画にするときに、このシーンが採用されることはないだろう。誰もこのシーンが、転機になるとは思わない。フロートの新たなチャンピオンの物語は、地球を相手に見立てた、バカげた会話から始まるのだ。
地球を指さしていた右手が、そのまま私に向けられる。
「それで、キミは誰に賭ける?」
「私たちに」
勝ちたいと強く自覚したときに、挑戦は始まる。
今だ。




