第1話(5/8)
勝手知ったる月面である。
日差しはあるのに空は黒一色だ。光る星々は昼夜の概念が違うことを伝えてくる。人工物のなにもない灰色の大地にあって、足元の白いプレート状のステージはやけに目立つ。
ステージには、人影がふたつある。
「手加減無用やで~」
「そのつもりです」
10メートル先にいる晩鐘さんがへらへらと笑っている。ステージは水に浮かんでいて、水に触れたら場外だ(水に落ちて失点することはあまりない)。
「せや、一応言うておくけど、俺はキミと同じごりごりの接近戦特化やから」
「……ご親切にどうも」
で、あれば殴り合いになる。
(いくら相手が私でも、ハンデなしは舐めすぎだ!)
私だってなかなか頑張ってる(結果は振るわないけど)。そうそうアマチュア相手に遅れを取るつもりはない。
「ほな」
晩鐘さんが指を鳴らすと、試合開始のカウントダウンが始まる。カーレースと同じだ。3・2・1と電子音が響き、0のタイミングで長めに音が鳴る。
0のタイミングになった瞬間に、右足で地面を蹴った。
晩鐘さんも駆け出しているが、動き出しは私のほうが圧倒的に速い。
「……」
慌てた様子は見えない。
1秒もしないうちに私たちはステージの中央部(から、晩鐘さんサイド寄り)で交差する。お互いに右のこぶしを突き出して、相手の頭部を狙っている。
しかし当然、体ごと前に進んでいる。相手の頭を殴れようが殴れまいが、互いの体が激突するのは必至である。
そうならないのは、これがゲームだからだ。
(おっと)
私たちの体は互いにすり抜けた。
幽霊みたいに重なり、そしてそのまま駆け抜け、何一つ傷つかず、前後の位置を入れ替えることになった。
勢いそのままに体を回転させ、また向き合う。
(さすがに一発じゃ無理か)
アバターはゴーストとも呼ばれ、当たり判定を持たない。見えるけど、触れられないものとして、ゲーム上で設定されている。
「なかなか避けるの上手いやん」
「……そちらこそ」
交差する瞬間、私たちは頭を捻って相手のこぶしを避けていた。
蛍光オレンジのグローブとシューズ、そしてアバターの、ゴーストの頭部にある核には当たり判定がある。核というだけあって、破壊すれば得点だ。
もし、当たり判定のあるものだけ表示すれば、パタパタとひとりでに走る靴と、宙に浮かんでいる手袋。そして上の方に浮かんでいる球体、というコミカルな光景になる。体の端っこだけがある状態だから、透明人間が戦っているのか? と思うに違いない。
フロート。
月面で行われる、浮かぶオレンジのぶつかり合い。
「そういえば、オブジェクトのカラー表示なに色にしとるん?」
よくしゃべるな、おい。いや練習中だから別にいいんだけど、やきもきする。やっぱり私って舐められてるのか?
ファイティングポーズのまま、私は答える。
「……蛍光オレンジ、です」
「ええやん。やっぱ定番カラーが一番見やすいよな」
このゲームでは当たり判定のあるものを見やすく、強調表示することが可能である。
ビジュアルアクセシビリティのひとつだ。強くなるわけじゃないけど、戦いやすくなる、みたいな機能がたくさんある。どれも、ゲーム内リソースを割いて使うものだから、無駄遣いはできない。
「そうですねっ」
もう一度距離を詰め、相手のコアを狙う。
互いに頭だけを執拗に狙い、ボディブローや手足がぶつかることをまったく恐れない。生身どころか、一般的なVRゲームでも見ることのないような動きだ。奇妙なボクシングもどきのやり取りが続く。
しかし均衡が崩れる。
互いのこぶしが空を切り、すれ違おうとしたとき。
私たちは途中でブレーキをかけ、向かい合う。
「……」
細長いステージと体が平行になっている。左右には数メートルの逃げ場がある。それに対して前後の幅はわずか2メートル。大人ふたりが向き合うには狭い。もう一歩も下がることはできず、敵を見据える。
互いの距離は1メートル。
「……勝つつもりですか?」
「当然」
ブランクがあるとは思えない自信だった。
酒とギャンブルに日々溺れているとか。言っちゃあなんだが、お腹が少し出ている。動きのキレも、全盛期からは程遠いに違いない。
(……上等)
私は腐ってもプロなのだ。いや腐ってなんかない。技術的な練習はもちろん、体調管理もばっちりだ。
酒くずギャンブラーに負けてなるものか。もし負けたら……悔しすぎる!
視線のフェイントを混ぜ、そしてワンツーで決めよう。
(勝負!)
左のこぶしは弾かれたが、本命の右がコアを捉えた。ガラスが割れるような音が鳴る中、反撃を警戒して、左手側に飛びのき、距離を取る。
晩鐘さんは追ってこなかった。
「さすがやなぁ」
ぱらぱらと核の破片が散る中、晩鐘さんはうんうんと頷いていた。
「……晩鐘さんも、相当動けますね。もしかしてずっとゲームやってたんですか?」
なにも大人げなかったと思って、気を遣ったわけじゃない。想像よりも強かったのだ。引退後、サボっていてはあの動きはできない。
ちょっと照れくさそうに晩鐘さんが口を開く。
「ゲームしかできんしな。……てかやっぱハンデくれへん?」
「もちろん」
晩鐘さんはいい動きをしてた。でも、あくまでアマチュアレベルの話。曲がりなりにもプロである私とただガチンコで戦っても、晩鐘さんの勝ち目はない。
(そもそもコーチが選手より強い必要なんてないし)
なんだったらプレイ経験すらなくていい。とはいえ、私より成績を残した以上、言うことも素直に聞きやすい。案外、うまくやっていけるかもしれない。
「ハンデ、ハンデね。どないしょかな」
「なんでも」
この眼前に広がる宇宙のような心持ちだ。勝負に勝つことほど健康にいいものはない。しかも人に優しくもなれる。負けた時のことは、まぁ、いいじゃない。
「せやったら──」
にやり、と彼は笑う。
「目隠し! してくれへん?」
「……は?」
ちょっと何言ってるか分からなかった。




