〜7話
灯は、静悟郎がテーブルの上に置いた石を見る。すべすべとしていそうな、白寄りの灰色。自然の石というよりも、人工の石に見えた。
「これはいわゆる人造石だ」
「人造石?」
「ああ。粉末にした石を固め直して作る。俺が作ったものだ」
それを聞き、灯は石を手に取ってみる。やはり見た目の通り、摩擦が少なくすべすべとしていた。河原でたまたま見つけたら、つい手に取ってしまいそうな曲線美のフォルム。灯は自分の惑い鯉を見て、このような石が敷き詰められた綺麗な池を思い浮かべる。
「固める際に、塩を練りこんである」
「塩、ですか」
「そうだ。普通の石屋はやらない。石が傷むからな」
──そう言われてみると、不思議とどこか塩の匂いがしてくる気がする。灯は石を触りながら静悟郎の話を聞く。
「眉唾でしかないが、婆さんが言うには、水に棲む生き物の姿をする『バケモン』たちは、塩に海を思い出す。それで海のほうに帰っていくから、効果があるそうだ」
「なんか、妙に説得力ある気がします」
「そうか? 鯉は淡水魚だぞ。まぁ、効果があるのは事実だが」
「あの、盛り塩とか、お清めの塩っていうのは……」
「その通りだ。あれは『バケモン』への対処に由来するらしい。それに加えて、塩が持つ強力な殺菌作用という『経験の科学』も後押ししたのだろう」
話しながら、次に静悟郎はテーブルに紙切れを置いた。何かが書かれている。灯はすぐに石を置き、紙を持ってその『何か』をじっと見つめる。
「……楔形文字? のように見えます」
「なんなのかは、俺にもわからん」
「なんて書いてあるんです?」
「それもわからん。重要なのはそれが何かじゃない。それをこの石に彫ると、効果があるということだ」
これが仮に文字だとすると、二文字が書かれているということになるが、その正体について知る者は誰もいない。専門家が堂々と言う『わからん』には、逆に妙な説得力があると灯は感じていた。
「えっと、塩だけじゃダメなんですか?」
「ああ。塩は、寄せ付けないだとか、追い払うだとか、そういう意味を人間側が持ちすぎている。それが即効性を弱めるんだ」
「そっか。この鯉って、認識に基づく現象だから……」
「婆さんいわく、”石に刻む”と”意志に刻む”のかかった『まじない』らしい。これも効果だけは確かだ」
静悟郎は段取り良く、次に彫刻刀のようなものをテーブルに置いた。
「篆刻刀だ。初心者でもすぐに扱えるものを用意した。これで、これに、これを、彫る」
そして全ての説明が終わったと言わんばかりに、また煙草を咥えて火を点け、吸い始めた。灯はまだ状況の理解が曖昧だったので、念のため確認をする。
「あの、これ、私が彫るんですよね?」
「他に誰がいるんだ」
「そうですよね。いやあの、てっきり私、湾洞さんが床に魔法陣を書いたり、祭壇で祈祷を始めたりするのかと……」
「漫画の読み過ぎだ。俺は換気扇の掃除をしてくる。彫り終わったら戻る」
静悟郎はそう言って、煙草を吸いながら事務所の中に歩いていった。空気に煙が漂う。空気に煙が漂う。自分でやれとは言われたが、石や方法を用意したのは自分ではないと、灯はしかと理解していた。言われた通りに、篆刻刀を手に取る。
(どのくらいの大きさで彫ろうかな)
手のひらサイズの石。そこに直線的な文字のようなものを彫る。近いのは漢字の『五』とカタカナの『サ』だが、上手く彫れるだろうかとも不安になった。綺麗な紅白の錦鯉になった惑い鯉は、少し大きめに宙を泳ぐ。灯はそれをもう少し眺めていたくもなった。しかし、石に刃を入れる。
(思ったよりも柔らかい……?)
知識のない灯には、それが石の柔らかさなのか、刃の鋭さなのかがわからなかったが、思うよりずっと楽に、綺麗に一本の線が彫れた。同時に、作業にあまり時間がかからなそうなことがわかる。
ガリ、と微かな音を立てて、刃先が灰色の粉を押し出していく。二本目の線も綺麗に彫れた。そうして石に線が刻まれていくたびに、惑い鯉との別れが、文字通り刻一刻と迫ることを、指先に感じる。作業を始めたばかりなのに手に汗をかいている。灯はその辺にあったタオルを、清潔そうかだけ一応確認した後、それで手を拭った。
お手本の紙と、削られていく石を交互に見る。ガリ、ガリ、と、墓石に囲まれながら、彫る。意志に刻む。
ガリッ。両親の顔が思い浮かぶ。──帰ったら休職のことを話そう。
ガリッ。シュレッダー、部長、会社。──復職するなら、異動願いからだ。
ガリッ。──推し活も歴史小説も旅行も、再開したい。
灯は手元が狂わないよう、余計なことを考えないようにしたかったが、石から粉が削りだされていくたびに、頭の中の不純物が外に押し出されるイメージが湧いて来て止まらず、どうしてだか指先が鈍く痛んだ。
手の汗を拭いながら進める作業は、やはりさしたる時間がかからなかった。最後の線を彫る前に、灯はもう一度、惑い鯉を見上げる。いつしか突然現れ、視界を占拠し、灰色の池に同化するようなドブ色で現れたその鯉が、こんなにも美しく姿を変えるだなんて。どうか、澄み切った清流で、その紅白の背に太陽の光を受けながら、輝くように、強く泳いでいけますように。灯は願いを込めるように、最後の線を刻んだ。
すると、石がほんのりと温かくなった。灯は一瞬それを、作業に集中していた自分の手の熱だと勘違いしたが、徐々にその温度が上がっていくことに気が付く。そして間違いなく、白い光を発し始めた。
「成功したな」
「うわびっくりした!」
背後からの低い声。静悟郎はいつの間にか戻ってきていた。
「なんですかこれ!」
「ああ、上手くいくと光るんだ」
「先に言っといてください! なんでサングラスしてるんですか!」
「眩しいから」
「これ、どうするんです!? 次は!」
「両手で、光を覆い隠すように石を包み込め」
少し落ち着いてみると、石は温かいが熱くはない。湾洞の言う通り、灯は石を両手で包み込んだ。まばゆい光は、完全に掌に閉じ込められた。
「さっきやったように、惑い鯉を見ず、今度はクリアな視界。惑い鯉のいない視界をイメージしてみろ」
灯は一度、惑い鯉の顔を真っ直ぐに見つめる。鯉は、くるりと宙返りをしてみせた。呼吸を整え、ゆっくりと瞳を閉じる。それをすれば何が起きるのかを、理解しながら。
──さようなら。ありがとう。
せせらぐような水の音が、止んだ。
◇
城に帰るような安堵で自宅の扉を開ける。アロマの香りがする。内側から鍵をかけて電気のスイッチをカチっと押すと、見慣れた部屋の光景が視神経から脳に届く。もう何日も、綺麗な状態が維持されている。
水垢ひとつない洗面所での手洗いうがいは、凱旋の儀式。うがい薬が残り少なくなっていることに気付いた灯は、すぐにスマートフォンで通販サイトを開き、生活用品の並べられたお気に入りリストからそれを購入した。
部屋に行き、クローゼットを開く。整理整頓は行き届いている。持っていた鞄から封筒と『内服』の紙袋を取り出し、衣類の脇に鞄をしまう。そしてソファに座り、戦果となった契約書を封筒から取り出して開いた。
『お前の会社、副業は大丈夫なのか?』
『大丈夫ですけど、さすがに休職中はまずいと思うので、報酬は休職が終わってからまとめて貰います』
『なるほど。ただの外出なら、確かに咎められまい。復職はするのか?』
『今はまだ、わかりません』
交わした契約内容を読んでいると、随分と自分に都合のいい条件が成立したことがわかる。
『給与の希望額、ちょっとお前、高望みしすぎじゃないか』
『それくらい払ってもらわないとやりません』
『……足元見やがって。強かな女だ』
『そうですよ。私ね、強いんです』
契約書を折りたたんで元の封筒にしまい、棚のクリアファイルに挟む。その棚の二段目から下には、休職を知った灯の両親が大量に送り付けた食品が、ぎっしりと詰め込まれている。
(災害でライフラインを絶たれた人みたいだ)
灯はその中からクッキーを一袋取り出して、バリバリと食べた。実家の味。食べかすが床にこぼれる。足元のそれを見て掃除機を取り出し、本日の掃除に乗り出す。
見えるべき全ての床は見えている。灯はふと視線をあげて、辺りを見渡した。かすかに水の音がする。 その音を辿って洗面所に行き、そっと微笑みながら、蛇口を強く締めた。
第一章 灰池の鯉 終




