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水棲の月  作者: 鯖林檎
第一章 灰池の鯉
8/17

〜6話


 見えるべき全ての床が見えている。指でなぞっても埃のつかない本棚、テレビ台。買い換えた調理器具が並ぶキッチン。ゴミは全てがゴミ箱の中にあり、シンクにペットボトルは放置されていない。干していたフィルターを手に取った灯は、掃除機にそれをセットして、コードを綺麗に束ねてから所定の位置にしまった。


「どう? この、綺麗な部屋」


 活発に宙を泳ぐ鯉の返事がないことは知っている。あれから三日、その『準ひとりごと』の通り、灯の部屋はかつての姿を取り戻していた。


 時刻は午前九時。灯はテーブルにつき、モニターに動画サイトを映す。推しアイドルのライブ映像をなんとなく眺めながら、デパ地下で買ったアプリコットのジャムを塗ったパンを口に運ぶ。


 今日は、湾洞石材店に足を運ぶ約束がある。灯は、泣きじゃくりながらも胸の内に降りてきた『鯉と私』という仮説について、一刻も早く答え合わせがしたかった。


 それを理由に、あの日の帰り道で咄嗟に電話をかけもしたが──『今は仕事で東北にいる。三日後には戻る』──。そう一言だけ告げられ、プツリと切られた。そうして不意に日を空けられてしまったために、掃除ぐらいしかできなかったのが実情であった。


「あ、まだ薬飲んでないや」


 動画を止め、常温のミネラルウォーターで向精神薬を流し込む。小さな紙袋の『内服』の文字に、まだ何も変わっていない現実を突き付けられる。それでも、片付いた部屋と少しばかりの落ち着きという副産物を、灯は確かに手にしていた。そこへ、察したかのようにスマートフォンが鳴る。


『湾洞だ。時間だが、今日は何時でもいい』

「ありがとうございます! 今から準備して行きますね」


 電話を切ると、灯はすぐに立ち上がった。開いたクローゼットの中は、まだ押し込まれた衣類で乱雑なままだった。灯は隅のほうにあった綺麗な一着を引っ張り出して、すぐに扉を閉めた。



    ◇



 東京都調布市。紹介状がなければ訪れることがなかった土地。自宅からそう遠くはないが、灯はいかんせん、自宅より西に行くことがほとんどなかった。市内の小さな駅前は、今日も東京の静かな部分としての賑わいを滲ませている。行き交う人々には生活の気配。晴天が彼女の足取りを手伝う。


 以前に訪れた際には気付かなかった、街路樹の緑。朝から客が並ぶ精肉店に、開店直後の花屋。静悟郎が大量の水菜を買ったであろうスーパーも、横断歩道の向こうに見えていた。看板が少し色褪せている。青信号になると、灯はそれを横目に石材店のある道へ入った。


 よく工場から聞こえる高い音。灯は耳に届く音をそうラベリングしたが、それが湾洞石材店の中から響いていることに、店の前に立って気付いた。石の乾いた匂いに、かすかな火花と線香のような匂いが混ざる。店頭に並ぶ無地の墓石の後ろを覗いてみると、グレーの作業着姿の男が工具で石を切っていた。保護メガネをしていたが、佇まいが人物を示している。灯は、作業が一段落するのを待ってから声をかけた。


「湾洞さん?」


 静悟郎は作業の手を止め、保護メガネを外した。


「随分早かったな」

「急いだんです。どうしても早く聞いてほしくて」

「そうか」


 灯はそこにあった椅子に腰かけた。静悟郎はどこからともなく灰皿を取り出し、作業机の上にコンと置く。灯はそれを見て、小さく息を吸いこんだ。


「色々、考えたんです」


 静悟郎は胸ポケットから取り出した煙草に火を点ける。


「病気の症状じゃないってわかったら、なんだか色々考えなきゃいけないような気がして」

「ああ。俺もどうせ暇だ。全部話せ」

「ありがとうございます。あの、この鯉、やっぱり私そのものでした」


 灯は視線を宙の鯉にやった。今は泳いでいるというより、浮いているようだった。


「鯉は生命力が高くて、たとえ汚い水でも、どんな場所でも生き抜いていけるような強い魚なんですよね。田舎育ちの私にとって、川の鯉は確かにそういうイメージでした」

「そうだな」

「それがいつしか、管理された、綺麗な池の中で飼われていて、人からエサを貰って生きるイメージも持つようになりました」


 静悟郎は煙を吐き、灰皿にトントンと灰を落とす。


「その二つのイメージが重なると、上手く言えないんですけど、強いはずの鯉が池の中で飼われているって、本来の姿を失ってしまったように思えたんです。それがすごく苦しいことに感じて」


 静悟郎は黙って続きを聞く。煙草の燃焼材のチリチリという音。


「私は、両親に褒められたくて頑張るような、至って普通の人間なんです。でも期待が重いとかはなくて、そういう自分が、普通に好きでした」

「……」

「会社で理不尽な仕打ちを受けて、苦しかった。それでも、毎月給料が入ってきて、周りには大手勤務だって言えて。私はこの会社から、この池から出たらいけないと強く思い込みました。それから……好きだった自分のことを忘れました」


 灯は淡々と述べながら、少しずつ俯いていった。静悟郎の煙草の先の赤色が、少し長めに点いて、消える。煙に変わる。


「なんか、すごく話したかったはずなのに、まとまっていない気がしてきました……」

「──惑い鯉(まどいごい)、と呼ぶそうだ」


 静悟郎は煙を深く吐いたあと、口を開いた。灯は俯いた顔を上げる。


「俺の先代は俺の婆さんでな。その婆さんから仕入れた物くらいしか資料がないが、そこにも記されている。戸惑う、惑わせるの『惑う』だ」

「惑い鯉……」

「お前……いや、吉峰さ──」

「『お前』で大丈夫です」


 灯はしっかりと遮って伝えた。静悟郎は灯の目を見てから、続ける。


「お前の言ったことは、正しい。惑い鯉は、生物としての主体性を変容させられた鯉に、人が無意識に自身の葛藤を重ね合わせて発現する。鯉はその生態だけでなく、モチーフとしても強い。日本や中国では特に、人々の深層心理に存在している」

「主体性……」

「気付いたと思うが、その姿も厳密には鯉ではない。鯉のような何かとして揺蕩っている。自分の形がわからない、もしくは、わかっているはずなのに決められない惑いが、体を表す」

「そうですね。まさに今の私です……」


 仮説が静悟郎に一つずつ裏付けされていくにつれ、灯は、胸の奥に沈んでいたものが静かに解けていくのを感じていた。


「お前、鯉のことをよく調べたんじゃないか?」

「……はい。結構、調べましたけど……?」

「面白いことを教えてやる。目を閉じるか、手元をじっと見ながら、鯉をイメージしてみろ」


 灯は静悟郎の言う通りに、目を閉じながら頭の中に鯉を思い浮かべてみた。あの池で実際に見た、綺麗な紅白の錦鯉の姿が、鮮明な記憶から映像で強く浮かぶ。


「なるほど」

「なるほど?」


 静悟郎は少しにやつきながら、煙草の先端で灯の後ろを指した。灯が振り返ると、そこには頭の中に浮かんだものと全く同じ、綺麗な紅白の錦鯉が、強く、しなやかに宙を泳いでいた。


「すごい……! どうして」

「鯉を見ずに強くイメージすると、姿が変わるんだ。人の心、認識から生まれているからな」


 灯は、心を奪われてしまいそうなほどの『理想の鯉』を眺めながら、目を離さず、言葉を漏らす。


「──私は、私の思う自分になれるんだ」

「解釈は自由だ。ただ、このやり方で消すことまではできない。それは、生きている人間が『死』を理解できないことと同じ、理性の限界だ」


 消す。そのワードに、灯は話の本筋をしかと思い出す。この鯉を、静悟郎に見えなくしてもらうのか、長い時間をかけて自然にそうなるのを待つのか。察したように、静悟郎は続けた。


「正直、俺がわざわざ手を貸す必要はもうない。ここまで知ったなら、あとは時間の問題だ」

「私は……」

「そう考えると、不可視化と助手の着任が、もう交換条件にならないな」

「……いえ、やります。やってください!」


 静悟郎は灯の目を見つめる。


「今、自分で選ぶことに、意味がある気がするんです」


 灯は、予め用意していた答えを強く言葉にした。


「いいのか? 意外と愛着が湧いてたりしないか?」

「消滅するわけじゃない、って言ってましたよね」

「ああ。俺が扱うのは、ただの『不可視化』だ」

「なら大丈夫です。見えなくても、ずっと側にいてくれるってことですよね。この子は私なんですから」


 もう間もなく別れることになる『惑い鯉』を見つめる灯の目には、その紅白の体躯を包み込む、澄み切ったせせらぎまでもが映っていた。


 静悟郎は、少し顎をかいてから、煙草を灰皿に強く押し当てて消した。そしてポケットから、手に収まるくらいの大きさの何かをテーブルにコトッと置く。冷たそうな石だった。


「わかった。契約成立だ。始めるぞ」


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