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水棲の月  作者: 鯖林檎
第一章 灰池の鯉
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〜5話


 灯は、散らかったままの部屋に外側から蓋をするように、玄関の扉を閉めた。鍵を回したカチャリという音が冷たい。鯉はドアをすり抜けて、彼女についていくように泳ぐ。


 灯の向かう先は自宅から二駅。そこから少し歩いた場所にある、八ツ藤公園。世田谷区の南東部、閑静な住宅街にひっそりと隠されるように存在するその場所。地図の概要欄には、明治から大正にかけた政財界の重鎮の広大な邸宅跡地を、そのまま区が買い取って公園にしたものという記載があった。


 駅の入り口を眼前に、信号待ち。灯はスマートフォンで住所を確認しながら、公園の地図を眺める。

 公園の北側は、現代的な児童公園や芝生広場。そして鬱蒼とした竹とクヌギの林を挟んだ南側には、かつての面影を残す、回遊式の日本庭園エリアが残されている。

 その一角にある、瓢箪(ひょうたん)のような形をした大きな池に鯉がいることを、灯は写真付きの口コミから確認した。どうやら、餌も売っているようであった。横断歩道の信号が青に変わる。


 まだ出勤の人々が行き交う、朝の最寄り駅。行き先の駅は通勤定期券の圏内。──なんか申し訳ないな──。五月病と戦う真っ只中の空気に満ちるその改札を、灯は俯き気味にアイ・シー・カードで抜けていく。


 駅の構内にあるアイスの自動販売機。足取りさえ軽ければ買っていたかもしれないと思うと、あれは、仕事へ向かわない朝にだけ許される、小さな背徳感のために置かれているのだと、灯は初めて理解した。地下鉄のホームから吹き上げる風が強い。


 電車は二分後に来る。形式になぞって並ぶホームの列も、この駅程度の人の数では、さほど意味を持たないが、皆こぞってそれを成している。灯も例外なくそれに加わりながら、ふと周囲に目を配り、いくらかの鯉の遊泳を視認した。ポチャンという水面の音。短い外出にイヤホンは用意していない。


 この二駅という距離は、歩けそうで歩けない。というより、歩くと後悔する。東京に住んで二年が経つ灯は、既にそれを知っていた。


 程なくして、電車が来た。扉が開いた時点で座れないことがわかったため、灯は二駅間の相棒を吊り革とした。窓はあるが、景色はない。


 ──駅ごとに街があるのは、きっと地下鉄の中には景色がないからだ。地続きのイメージはコンクリートに塗りつぶされていて、たった数百メートル先の異世界に、這い上がるように顔を出す──。灯は電車の揺れに身を委ね、窓に反射した自分を見つめる。


 あっという間に、目的地の駅に着く。灯は相棒に別れを告げつつ、相棒と呼ぶのであれば、手すりにすれば良かったなどと、どうでもいいことを思いながら電車を降り、ホームの階段を登る。一段登ってしまえば、引き返せない。中ほどで、何故エスカレーターにしなかったのかと悔いる。休職中の低下した体力に勾配が刺さっていく。今度の改札に対しては、申し訳なさそうに思う余裕がなかった。


 西口に出るため、今度はエスカレーターに乗り、地上へ向かう。最後は階段しかなかったために足腰に来たが、頭上の空が無機質な空間を割くにつれ、心なしか、灯には鯉の泳ぎが楽しそうに見えてきた。


 少し歩けば住宅街。駅の入り口からそれがわかる景色であった。通勤時間に由来した多少のざわめきこそあるものの、ここが『来る場所』ではなく『発つ場所』であることを、行き交う人の流れが示している。灯はスマートフォンを頼りに、その流れに逆らいながら、八ツ藤公園に向かう。五分も歩けば着くところである。


 体操服の袋を蹴りながら歩く小学生。散歩中のラブラドール・レトリバー。ジョギングのサングラス。郵便局の原付バイク。自動車がすれ違うには狭い道で、小さな街の姿とすれ違う。


 この道を真っ直ぐ、あと少し歩くだけで着くところで、灯は体力を理由に立ち止まる。たったこれだけの行動が、体に鞭を打つような真似になるとはと、引きこもることの恐ろしさを身を以て知りつつ、すぐに歩き出す。


 足よりも先に、目が着いた。広々とした公園は、背の高い木々の緑で、遠くにもよく目立つ。灯はスマートフォンの左上を見る。朝の八時。地図によると、この先は北側の児童公園エリアである。


 まだ子供達が遊んでいるということはなさそうなので、灯は、公園の中を突っ切って庭園エリアまで行くことに決めた。入り口の塀は、地元の小学生たちによってデザインされている。キリン、ライオン、おそらくサイ。カラフルで温かな出迎えを眺めながら歩く。


 誰もいないアスレチックを横目に、灯は考えた。──こうして周りを見ながら歩くのはいつぶりだろう。休職した二ヶ月前からではなく、心を壊し始めた一年前くらいからだろうか。鯉が視界に現れたことにも、すぐには気付けていなかったのかもしれない──。地図では大きかった公園エリアも、実際に歩いてみると小さく感じられた。


 庭園エリアとの間にある林の道には、中央に小さなドッグランがあった。灯はまだ誰もいない貸切の道を進み、庭園エリアに辿り着いた。そしてすぐ、視線の先に水面を捉える。地図の示す、瓢箪の形をした大きな池。それに少しずつ、近づいていく。


『鯉のエサ 百円』


 手書きの小さな看板は、池にせり出した桟橋のすぐ近くにあった。野菜の無人販売所のような、無防備なシステムが堂々と佇んでいる。灯は財布から百円玉を取り出して、その頼りない木箱にチャリンと入れると、鯉のエサが詰まったプラスチックの容器を手に取った。


 最近作り直したのか、灯には、足元の桟橋がまだ新しく見えた。水辺の木は痛むイメージがあったが、ヴィンテージ感がない。軋みも感じない。スマートフォンや財布を落とさないよう鞄にしまい、水面に目をやる。写真では水の濁りが強く見えていたが、それよりは澄んでいる。手入れはしっかりされているようで、ゴミや木片が浮いているようなこともない。


(──鯉がいる)


 エサを撒く前にわかる。何匹もいる。サイズの大きい錦鯉たちであった。赤い鯉、紅白の鯉、金色の鯉、モノトーンの鯉もいる。


 灯は、鯉の泳ぐ軌道に合わせるように、エサを投げて撒いてみた。鯉たちはすぐに反応して、水面に顔を出した。彼女はよく観察したかったが、それには少し遠かった。


 灯はふと、池の全貌を眺めてみた。児童公園エリアと同じ、やはり地図から受け取った印象よりは、小さい池であった。ここは東京の真ん中。『それはそうか』と、視線を鯉たちへ戻す。エサを求める鯉たちは、すでに彼女の近くまで寄ってきていた。


「おぉー。賢い」


 灯は思わず声に出した。人のいない公園、誰からも返事はない。先ほどとは違い、目の前の水面に放るだけで、エサが鯉たちに届いた。


「お腹、空いちゃったか」


 鯉に対して声をかける。今の灯にとって、それはまったく非日常ではない。今度は池ではなく、宙を泳ぐ鯉を見上げてみる。


「お前は何も食べれなくて、残念だね」


 灯の鯉は、しなやかにターンしてみせた。


 池の鯉は、エサを投げると、水面に顔を出しながら、それをパクパクと食べる。なくなれば、ねだるように水面を泳いでみせる。灯はその様子をしかと観察するも、繰り返されるだけの単調さにすぐに飽きてしまい、溜息を漏らした。


「……みんな『魚類最強』らしいけど、こんなところで、何してるの」


 そう言葉にした瞬間、灯の脳裏に両親の顔が過った。



『──灯! すごいなぁ!』


 九九を覚えたとき。父の言葉。


『灯。あんたがしっかりしてるから、ママは安心だよ』


 母がインフルエンザで寝込んでいたとき。皆の夕飯を作って褒められた。


『合格おめでとう! 賢いにもほどがある! 本当に俺の子か?』


 大学受験、志望校の合格。蘇っていく温かな日々の言葉たちと、それに包まれながら生きた、大好きだった、強かった自分の記憶。シュレッダーの音が重なる。逃げるわけにはいかないと、思い込み続けた毎日。


『東京の会社なのね。寂しくなったら、いつでも帰ってくること』

『俺たちの宝物だ』


 最愛の両親。どこまでも優しい無償の愛。何もできなくなり、汚い部屋に閉じこもって、薬を飲むだけの日々。


『えらいぞ』

『ありがとう』

『灯!』

『灯』


『──』


 ──私だ。


 指先から、鯉のエサが水面に落ちた。池の鯉はそれを見落として、ただ波紋が広がるだけだったが、やがてそれを見つけて食べた。ただそれしか、できない。鼻の奥が震えるようにして、灯の目頭を熱くさせた。


 ──鯉は、今の私なんだ。


 濁流のように押し寄せる涙に、理性の防波堤は瞬時に崩れ去った。桟橋に膝をつき、嗚咽をあげる。


 ──ママ。パパ。ごめんなさい。


 胸の内を抉る悲痛が、誰もいない都会の真ん中に沈んでいく。


 ──今の私、ぜんぜん、私なんかじゃなかったね。


 どこまでも強いはずの鯉たちがエサを待つ池は、地図で見るよりも、やはりずっと小さかった。


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