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水棲の月  作者: 鯖林檎
第一章 灰池の鯉
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〜4話


 睡眠時間の確保が大事。主治医からそう教えられて実践するも、上手く調整が利かず、寝すぎる日々。ベッドに括りつけられて、動きたくても動けない毎日。できることと言えば、せいぜいスマートフォンで動画を垂れ流しておくくらいのこと。負の習慣を妨げる何かすら、存在しない。


 灯は、そうした『いつもの夜』を送っていたはずだが、深夜の中途覚醒から、現実に瞳を閉じるような二度寝に流れなかった朝を迎えていた。


 外が明るい。この時間に灯の意識が冴えていることは久しかった。グレーの遮光カーテンを開け、太陽光を部屋に入れる。(あらわ)になる埃の蓄積。眩しさにしかめる顔。表情筋の動きが、休職前の生活を想起させる。


(──そうだよ。私は、朝に起きていたんだ)


 昨晩は『なぜ鯉なのか』という問いについて、考えようにも考えられない苦しみまでしか辿り着けなかった。陽の光から『光合成』というワードを連想し、エネルギーの不足を実感する。糖が足りていない。灯はそう判断した。


 食事。米。エビフライ。連想は昨日の記憶に紐づき、空腹を自覚させた。視界を遊泳する鯉。魚だが、美味しくはなさそうであった。汚い川に染まったようなドブ色の背中に、硬そうな腹。ギョロっとした目に、パクパクと動く口。お世辞にも可愛いとは言えない。幻覚だという認識から、これまでまともに観察していなかったが、よく見てみると、大変に気色の悪い見た目をしていた。


 そこから視線を外せば、衣類が脱ぎ散らかしてある床。雑多に物が並べられたキッチン。テーブルの上にはゴミまで放置されている。灯は、自分がこの部屋で一体どうやって食事をしていたのか、突然に思い出せなくなっていた。というより、ようやく、不思議に思うこととなった。


 かろうじて、粉末の甘いロイヤルミルクティーがあったので、電子ケトルで湯を沸かす。待つ間、近くにあったビニール袋をおもむろに手に取り、シンクに放り捨てられていたペットボトルの残骸たちを詰め込む。すぐに二枚目の袋が必要になったので、視界を探るが、そこでふと思い出して、シンク下の収納を開けた。


 角を揃えて小さく折りたたまれたビニール袋が、箱の中に整然と詰められている。そこからクッキーを選ぶように一枚をつまんで取り出し、残りのペットボトルを詰め込んで、結び目を作る。そうしてステンレスのシルバーと再会するが、黒カビに溜息が漏れた。


(ゴミ、いつでも出せる家を借りといて良かった)


 灯はパンパンに膨らんでゴミ袋と化したそれを持って、サンダルを履き、玄関のドアを開ける。

 雀と鳩の声、道行く車のエンジン音。すこし遠くには、スーツ姿の歩く人々。平日の朝。


 部屋着姿でゴミ捨て場まで行く途中、階段でマンションの住人とすれ違い、灯は気まずさと恥ずかしさを覚える。ゴミ捨て場の重いドアを開ける。臭い。急いで所定の位置にゴミを投げ込むように置いて立ち去り、階段を駆け上る。そうしてドアを開けた先の自宅は、今しがたのゴミ捨て場よりも汚かった。そこでちょうど、ケトルの『カチッ』という音が鳴る。


 取り急ぎマグカップを洗って、拭く。サラサラと注いだ粉末のロイヤルミルクティー。灯の関心はその賞味期限には向いていなかったが、たまたま、問題はなかった。

 湯を注げば、甘い香りが立ちのぼる。まだマグカップを置くスペースくらいしか空けられないキッチンで、立ったまま、冷ましながら一口飲む。やはり甘かった。感覚の連続にようやくキリがついて、灯はまた溜息を溢す。視界の鯉は変わらずに遊泳している。


(汚い川に染まったドブ色って、私のことか)


 なぜ鯉なのかについて、灯の中に少しだけ納得が生まれていた。どんなに濁りきった川の中でも、鯉だけは逞しく、普通に生きているイメージ。汚れているという川の情報は、鯉の知るところになく、そこに川があれば泳いでいる。東京で暮らし始めてから灯はすっかり忘れていたが、鯉は日本庭園や金持ちの家の、整備された池にだけ棲む魚ではなかった。


 五月。鯉のぼり。灯は、鯉の滝のぼりという言葉も思い出していた。──いわゆる故事に由来する登竜門の話は、そもそも鯉が、いかにも急流の滝をのぼっていけそうなほど、強く逞しい魚である事実から想起されていないだろうか──。スマートフォンを手に取って『鯉 強い』と調べてみる。


『鯉は魚類最強とも言われる魚です!』


 力のある見出しであった。灯は不意を突かれて口元を緩める。その記事をスクロールしていくと、鯉は水温や水質の変化に非常に強く、どんな環境でも生きていける、驚異的な環境適応力があると書かれている。彼女のイメージ通りであった。


 続いて、陸に揚げられて乾燥した新聞紙にくるまれてしまっても、数時間は生きていられるという、圧倒的な生命力も持ち合わせていると書かれている。更には、単に長寿な魚でもあり、一説には二百年も生きた鯉がいると記されていた。


(──私はそこまで強くないな)


 羅列される鯉の強さに、灯は自身との差を感じてしまった。スクロールの手は止まり、先ほどまであった少しの納得感が消えていく。汚い場所で過ごしていたこと以外、何も共通点がないとまで思った。まだ熱いミルクティーに、うっかり下唇の皮をむいてしまう。


 灯は、そもそも、この『バケモン』が、どのような条件でその形を決めるのかについて、早とちりしていたのかもしれない、と考えた。何も、鯉のような人間だから鯉が見えるとは、専門家の静悟郎も、まだそうは言っていなかった。灯は脳内を整理しながら、この思考そのものに、まず意味があるのかどうかに立ち返ってみる。しかし、その答えも当然、知る由もなかった。


「お前はいいなぁ。ゆらゆら泳いでるだけで」


 灯は決して可愛いとは言えない鯉の顔を見て、返事があるわけでもないのに話しかけた。気色が悪いとは思いつつも、常に身近にいて見慣れてくると、たまに、いわゆる『ブサカワ』に思えてくる不思議があった。


 そこでふと、灯は疑問に思った。自分は、鯉のことをわざわざ調べないといけないほど、鯉について何も知らなかった。それなのに、何故これが『鯉だ』とすぐにわかったのだろうか。鯉の顔だって、まじまじと見たことはない。ただなんとなく、イメージの中にある鯉と近かったので、そう呼んだだけだった。


 灯は再びスマートフォンの画面に目を向け、検索する。この目の前の魚は、本当に鯉なのだろうか。もし鯉ならば、一体『何鯉』なのか。


 検索結果を画像に出し、画面と視界の鯉を見比べる。その繰り返し。そこでようやく、真鯉という品種、錦鯉の品種改良の話、ヤマトゴイという外来種のことなどを知る。


 しかし、調べて出てくる画像のどれもが、視界で泳ぐ鯉と完全には一致してくれない。というより、特徴がいくつも混ざっているのだ。ヒレの形状、うっすら見える斑点、硬そうな鱗、大きさ、厚み、顔つき。まさに、曖昧だった『鯉への認識』が、そのまま具現化されたもののようであった。


 ──『説明するより、見せたほうが早い』


 灯は再び、静悟郎の言葉を思い出す。近くで実際の鯉が見られそうな場所はないか、と考える。──たとえば、この『泳ぎ方』は、実際の鯉と同じなのだろうか──。疑問と思考が、行動力に変わる感触。


 シンクを片付けた勢いで部屋の掃除に取り掛かりそうだったが、それを保留して着替え始める灯。それから『まだ行き先を決めていない』と、一旦冷静になる。マグカップのロイヤルミルクティーは、まだ熱かった。


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