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水棲の月  作者: 鯖林檎
第一章 灰池の鯉
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~3話


 機械に飲み込まれていく紙。バリバリ、というシュレッダーの音が、心を切り刻む。丹精込めて作った企画書を、自らの手で、細切れの紙屑へ変えていく。


「吉峰君。次は頼むよ、次は」


 部長の島田はにんまりとそう言い、企画を通した『お気に入りの女子社員』と共に、その場を去る。灯は、何か一つ違えば『自分が彼女の立場になっていた』という事実を恐れることで、どうにか自我を保っていた。


 思えば、二軒目のバーに連れて行かれたとき。既に何かがおかしかった。仕事の話だと言いながら、やたらに強い酒を勧める島田。灯が生来の酒豪であることを謙遜ながら隠すには、文字通り度を超える酒であった。酔ったふりをして帰ろうとすると、手を握られる。父親ほどの歳の男性がするその行為に、灯が感じたのは単なる恐怖であった。そして、不運を呪わずにいられなかった。


 どうにかそれを振り解いて、夜の帰路を辿る。タクシーの中では、酒の席のことだと、相手側の言い訳を必死に考えた。自分がまだ社会人二年目の女性であることに対して、自覚と危機管理が足りなかったと自分に言い聞かせた。何も起きていない。だからそれでいいと、思い込むしかなかった。日付が変わる頃にもまだ明るい東京の街が、舞台から降りることを許さぬように、車窓越しに彼女の顔を照らした。


 しかし翌週から、灯の仕事は変わった。担当中だったプロジェクトから外されることが一方的に告げられ、異動もないのに別の仕事を充てられた。──やってしまった。灯は直感でそう思うしかなかったが、もう何もかもが遅かった。


 当て馬としての企画書。初めから通らないことがわかっていて、それでもなお、本命企画のお膳立てのために作らされる。企画の段階でどう考えても無理筋とわかるものを、灯は指示されて懸命に作った。作るしかなかった。


 プレゼンでは、灯の企画が有利になることもあった。彼女の力は、その仕事の内容に確かに示されていた。しかし、鶴の一声が、いとも簡単に、全てを無に帰す。


「僕は吉峰君のは良くないと思うけどね」


 島田に逆らう人間は誰もいない。虚しく散った後には、公開処刑に等しいシュレッダータイムが待ち受ける。ペーパーレスのこの時代に、わざわざ紙の資料を印刷させる理由が、このためであった。


 ザー。バリバリバリ。


 ──もう何度、奥歯を軋ませながら、この音を聞いたことだろう。灯は、この理不尽を知らなかったわけではない。入社して二年と経たずに、同期や後輩が何も言わず、逃げるように会社を辞めていった理由。それがこの組織の『歪ゆがみ』にあると悟ることは、決して難しくなかった。ただ、自分の番が来るまで、見て見ぬ振りをしてきただけ。そう理解することが、更に自分の胸を締め付けた。


 それでも、内定を両親が泣いて喜んでくれた、この大手商社で働いていくことを、その人生の歩みを、止めたくなかった。


 シュレッダーに書類を流す。

 ザー。バリバリバリ。バリバリバリ。

 バリバリバリ。バリバリバリ。


 真っ赤に染まった右手。一秒後にあげる悲鳴の予感に、視界がホワイトアウトする。


「──!」


 反射のように起き上がる上体。息切れ。激しい動悸。滝のような汗が肌に冷たい。視界のデジタル時計は、深夜三時半を示している。右手の指は五本ある。目の前を横切る鯉。灯は現実を確信した。


(──また同じ夢)


 毛布を押しのけて立ち上がる。冷蔵庫から麦茶を取り出して飲むと、実家の味がした。スマートフォンを開き、赤いバッジの付いた通話アプリを開く。


『灯、そろそろ誕生日だろう。何か欲しいものはないか』

『元気にやっとるのは嬉しい。たまには帰ってこい』

『返事がない。ただのしかばねのようだ』


 父のメッセージ連投を見て、スマートフォンを強く握りしめる。仕事が辛いこと、寂しいこと、心を壊したこと、休職したこと。何一つ、正直に言えていない。明るく取り繕うための嘘は、もはや罪悪感を想起させ、吐き気をもよおす。最近はメッセージもなかなか返せず、こうして真夜中に、お守りのように見つめることが増えていた。


 鯉は優雅に宙を泳ぐ。


「あなたが本当に私なら──何か答えを教えて」


 鯉は、ただ優雅に宙を泳ぎ続けた。水の音は止まない。


 キッチンには、最後にいつ使ったか思い出せない深皿が、棚にしまわれもせずに放置されている。愛用のマグカップは埃被り、シンクにはペットボトルの残骸たち。


 ソファに座る。太腿あたりの違和感は、推し活で集めたステッカーを踏みつぶしていたことが理由だった。それを手に取って見つめる。シワクチャになった推しの顔は、最高の笑顔をしている。──今の私はどうだろうか──。夢見た大手商社のOL。憧れていた東京での生活は、汚れた部屋で行われる鯉との混泳と化していた。


 灯は昼間のランチを思い出す。こじんまりした駅のすぐ側にある洋食屋。そこまで洒落れてもないし、SNS映えする華やかさはなかったが、自然と笑みが溢れるほどに、美味しいエビフライ。食事という当たり前の日課を、いつぶりに楽しめたことだろう。


 再びシワクチャの推しの笑顔を見つめる。アイドルが心の支えになっていたのは、つい最近までそうだったはずだ。鯉と入れ替わるように、いつの間にか生活から姿を消していた。ライブに一緒に参加した、友達の顔が浮かんでくる。彼女たちと最後に会ったのは、もう一年近く前のことだった。


 スマートフォンでSNSを開いてみる。三ヶ月ごしの通知を受け取りながら気付く、フォロワーの減り。最後の投稿は、半年前の『おはよう』だったし、その一つ前の投稿は、七ヶ月前の『おはよう』だった。私は今、一体どこに生きているのだろうと、灯はタイムラインを久々にスクロールしながら、ボーッと考えた。こんな時間にも起きているフォロワーがいる。


 プライベートで新たに名前を覚える人なんて、この画面越し、ネット経由でしか現れない。灯は常々そう思っていた。それは推し活で知り合う仲間か、もしくはマッチングアプリで知り合うような男の人で、少なくとも、暗そうで、顔の怖い石屋の男ではない。湾洞 静悟郎。仄暗い名前である。煙草の匂いを思い出すと、頭の中を大きな黒い鯉が過る。


 そしてふと、灯は考えた。あの男は、何ゆえに『バケモン』が見えるようになったのだろうか。提示されるであろう多くの情報量に怯えて、今日は何も聞けなかったが、灯にとってそれは重要なことだった。


 ──精神の崩壊が視覚に侵食する。精神状態の閾値しきいちを超えると現れる現象。すなわち彼は、私と同じくして、過去にその心を壊してしまったのではないだろうか。だとすれば、私が今見るべきモデルケースは、彼自身ということにならないだろうか──。


 あの落ち着きぶりで生きることができたならば、そして何をしたのかは知らないが、あのように、自在にこの鯉を操れるようになれたならば。灯の思考が、渦の中から水泡のように浮上する。


 湾洞静悟郎はきっと『答え』を持っている。灯の導いた結論は、ひとえに『知りたい』であった。財布の中にしまった名刺を思い出し、取り出してみる。前時代的で硬質なその名刺には、メッセージアプリの友達追加コードなどはなかった。こんな時間に電話をかけるわけにはいかないと思い、一旦、スマホケースの裏にそれを挟んだ。


 知りたいという欲求が思考を紡ぐ。灯は、静悟郎に聞けばわかるであろう、いくつかの問いに向き合いながら、彼の言葉を思い出す。


 ──『姿はまちまちだが、その全てが、水に棲む生物の形なりをしている』


 姿はまちまち。ではなぜ、私の場合は『鯉』なのだろうか。灯が眠れなくなったのは、悪夢のせいではなかった。



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