○ 6話
青い看板。世田谷区のカフェの入り口脇。メイクしていなくても、他所行きの服でなくても、パーカーのフードで顔を覆い隠して俯いていても、それが結衣であることが灯にはすぐわかった。友達だからではない。そこに浮遊する無数のクラゲたちが、ただそれを示していた。途中、有名人であるその友達に、周囲が気が付かぬように、一切の言葉を噤んで移動する。一刻も早く安全地帯へ向かう二人。幸いにも、灯の自宅は近かった。
◇
「狭いけど、許してね」
自宅に友人を招き入れることが久々だった灯は、来客用のスリッパが埃かぶっているかもしれないと思い、普段自分が使うスリッパを結衣の足元に置いた。
キッチンを抜け、彼女をソファに座らせ、落ち着くまでの間に、自分は温かい紅茶を用意した。ティーカップの二つ乗ったトレーがテーブルに置かれると、結衣は重い口を開いた。
「……灯、いきなりごめん」
ガラガラの声だったが、温かった。灯はカップをトレーから下ろす。
「全然いいよ」
「こんな、わがまま聞いてもらえるような関係じゃないのにさ」
「いいって。小中一緒なんだよ? 幼馴染みたいなもんじゃん」
結衣は紅茶で少し喉の潤いを取り戻す。しばしの沈黙が流れるが、結衣がそれを破る。
「──聞かないの?」
「ん?」
「何があったのか、とかさ」
「んー、大体ネットで見ちゃったからなぁ」
「そうだよね。なんかもう、世間の晒し者でさ」
灯の胸がチクリと痛む。晒し者として扱われた情報を見たこと、それを告げただけになったことに気が付かされ、言葉に詰まった。
「あれから、DMいっぱい来てさ。動画に反論しないのかとか、単なる悪口とか、消えろとかさ。今、住所まで晒されててさ。張られてて家に帰れなくて」
「……」
「花屋が落書きされたことも、それから知った」
「結衣は、その、反論はしないの?」
「ちゃんと動画見たけど、本当のことだもん。最初はムカつくって思ったけど、バケの皮が剥がれただけだなって」
「……そっか」
今しっかりと言葉を紡いでいる結衣に、灯は再会時の彼女とはやはり別人だと感じた。結衣は姿勢を体育座りに変えて、視線を落とした。
「言い訳なんだけどさ」
「うん」
「私、嫌なこと言ってるなって、わかってても抑えられなくて、言っちゃうんだよね」
「うん」
「言ってると楽になるというか、マウント取るみたいな話し方してると、なんか難しいこと考えなくて済むなって。それに慣れてさ」
あの会話の違和感に、結衣自身も気付いていたと知る灯。『ダメだとわかっていてもやってしまう』。それは、会社に行かなければと分かっていながら足が動かなかったあの頃の自分と、何も変わらないではないか。
「落ち込んだとき、色々反省はするんだよ。気分が沈むとずっと後悔するし、気分が上がるとまたやっちゃう。なんか、病気なのかな」
「……そうかもしれないよ」
自分が心療内科にかかったこと、今、目の前に浮遊するクラゲ。それを思い、灯は強くそう返しながら続ける。
「追い詰められるとね、人は自分じゃなくなるの。私だってそう。頭で思った通りのことができなくなって、それで、会社も休んでるし、病院にも行ってる」
「……私もそうしなきゃだね」
クラゲは凪の海を思わせるよう、ただ浮いているだけであった。
「信じてもらえないと思うけど……」
「うん」
「動画で、お金を投げ捨てるように払ったって言ってたやつ。あれ私、それまでイベントで貰ったお酒を皆と飲んでて、かなり具合悪くなっちゃっててさ」
「うん」
「財布からお金出そうとしたときに、落としちゃっただけなんだ」
本人の口から語られる言葉。
「でも、頭がぐわんぐわんしてて、すぐに拾えなくてさ、そしたら花屋のおじさん、すんごい嫌そうな顔してて」
「うん」
「それ見て、勘違いされたなって思って。具合も悪かったし、それでちょっとムカついて。私貰ったお酒で具合悪くしたとか言えないから、ちょっと強気になって意識保ってて」
「うん」
岡井から話を聞いていたこともあり、灯の脳内に段々と状況が浮かんでくる。
「これが一番言い訳なんだけど、そのとき周りにすごいたくさん人がいてさ、すぐ近くの奴が『あのジジイなんかキレてね?』とか言うから、それに流されちゃって。具合悪いから丁寧になんかできないし、そのまま口論しちゃった」
「そうだったんだね……」
反応として、刺胞で攻撃する。灯はクラゲの生態を思い出す。
「いや、全然言い訳。その後、イベントの人たちとその話したとき、ちょっと煽られて。それで思い出してイライラして、ブログに書いた。謝ればいいのにさ。やっちゃいけないってわかってるんだけど、ムカついたら止まらなくてさ……」
結衣は顔を歪めて泣き出した。真実は、必ずしも客観的状況にあるのではなく、人の心の中にもあるのかもしれないと、灯は唇を噛み締めながら考えた。そして『信じてもらえないと思うけど』という結衣の前置きからの独白に、灯は記号的に『信じる』と返すことを躊躇いながら、言葉を返した。
「信じてもらえないと思うけど、私ね」
「うん」
「結衣が追い詰められてることが、心の状況が、目で、見えるんだ」
「……灯」
結衣は少し語気を強めた。目元の、少し怯えたような視線。
「炎上してから、いろんな人が、弱ってるって気付いて声をかけてきて」
「うん……」
「家に行ったら手を出してこようとする男だったり、私だけは理解者だよって言いながら、お金とろうとしたり」
危害を加えるのは、常に人間である。クラゲが結衣の顔の周りに流れて、彼女の顔を覆い隠す。
「だから、何も言わない灯に、自分から、助けてって言ったの」
「……うん」
「見えないものが見えるとか、なんか、スピリチュアルな、アレじゃないよね? 私、疑いたくないのに疑おうとしてる! 最悪だ……!」
大声をあげて泣く結衣。正解がわからない灯は、そっと、しかし、強く結衣を抱きしめた。その勢いに退けられるようにして、クラゲの群れがフワフワと散っていく。『大丈夫』という灯の一言。小学生のとき、二人は逆の立場だった。
「結衣、ちょっと待ってね」
灯はそう言い、立ち上がってスマホを手に取った。履歴の二番目、湾洞静悟郎。
「湾洞さん、お疲れ様です」
「お疲れ」
「あの、バケモンを見えない人に、見せる方法ないですか」
「──ある。条件付きだがな」
◇
初夏の午後の日差し。灯が念の為に買っておいた自分用のサングラスは、本人より先に友人が使うこととなった。有名人の『天然箱ちゃん』を変装させながら向かうは、調布市、湾洞石材店。
灯は、フラワーショップ岡井を避けるように迂回して、友達を連れてきた。結衣は、ボロボロになりながら最後に掴んだ藁を、ここまで離さなかった。事務所のソファに座ると、向かいに強面の『店主』が現れる。店主こと静悟郎は、結衣の顔をじっと見つめながら、低い声を放つ。
「驚いたな。渦中の人物を連れてくるとは」
「え、湾洞さん知らなかったんじゃ」
「ネットで見た顔だ。俺は一度見た顔は忘れん。変装していてもな」
全てを見透かすような鋭い眼光に、結衣は自然と目を逸らす。
「湾洞さん、それでどうしたら──」
「待て。まずは俺からだ。そこのインフルエンサーとやら、名乗れ」
「……葉山結衣です」
「吉峰のダチか?」
「小中学の、同級生なんです」
静悟郎の詰め寄るような口調に、灯はじんわりと額に汗をかく。静悟郎はマイペースに、タバコを吸い始めた。
「俺は吉峰の上司、湾洞だ。こいつがお前をここに連れてきたということは、これは仕事ということになる」
「はい……」
「そのはずだが、本来お前は俺たちの商売の管轄外だ。何があってもここに辿り着くことはない」
「……はい」
静悟郎は煙を深く吐き出す。
「それでも吉峰は、人に知られたくない力を、打ち明けるリスクを背負ってまで、助けになると思って、ダチのお前を連れてきた。最悪、命だって狙われかねない秘密だ」
「……」
結衣は、神妙な面持ちで視線を落とした。その顔を覆い隠すように浮遊する、クラゲの群れ。
「部下のリスク管理は上司の仕事だ。その上で聞くが、なぜ吉峰に頼った。フォロワーが何万人もいる、お前のような奴が」
少しの沈黙の後、結衣は唇を震わせながら答える。
「……フォロワーが……フォロワーがいくらいても、意味なんかありません。味方じゃありません」
「意味がない。そうか? フォロワーの多いお前だからこそ、発言ひとつで、一人の花屋の人生を踏み躙れたんじゃないのか」
「湾洞さん今それは──」
「お前は黙ってろ」
灯の静止を冷たく突き放す静悟郎。結衣だけが見えていないクラゲの群れが、フワフワとローテーブルの上に漂う。
「自分が良い思いをするときはフォロワーの数を利用し、嫌な思いをしたらアイツらは無意味。なるほど。うちの部下も同じように使うつもりか? もしそうなら、俺が手を貸す理由はひとつもない」
「湾洞さん! さすがに言い過──」
「俺が岡井なら──お前を殺している」
明らかに度を超えて鋭利な静悟郎の言葉。その意図の不明さにたじろぐ灯の横で、結衣の頬を一筋の雫が辿る。しかし結衣は、それを指で拭い、視線を真っ直ぐに上げた。
「……灯は、いいね」
「……え?」
「こんな風に、ちゃんと守ってくれる人がいる」
クラゲの群れは、まるで意思を持ったかのように、結衣の顔周りから散っていった。




