○ 7話
「私ね、大学のときにスカウトされてモデルになって、その後から、変になったと思う」
結衣は、自分の言葉で語る。対面の静悟郎も真横の灯も、彼女の顔を見つめている。
「浮かれてたけど、実際はついていくの大変でさ。私より綺麗な人なんていくらでもいて、売れなかったら何にもならない。そんなとこに来たんだなって思った」
「……」
「だから最初は必死。何もわかんないけど、売れてる人の真似して、やれること全部やって。横のつながりのために港区に入り浸ったりもして。その後やっとSNSでバズって、フォロワーが増えて。気持ち良くてさ。それだけをやってればいいんだなって思った」
灯は、会社に入ってパワハラを受けてから『自分』が消えていった過去を思い返して、胸が痛んだ。
「いつしか、自分のしたことが数字で認められないと納得できなくなったのかな。よくわかんないけど、数字さえ出てれば自分が正しい、みたいにもなってたと思う。だけど……」
「……」
「そうなってからの知り合いに、本当の友達は、一人もいない。だから、フォロワーがいくらいても、毎日バズっても、誰も味方がいない。守ってくれる人はいないの。──私がおかしくなったんだから、当たり前だけどね」
「………」
「こうなって、やっと気付いた。灯に話したように、私多分本当に病気で、これから向き合っていかなきゃいけない」
火の点いたまま灰皿に置かれた煙草。灰が落ちる。結衣は再び零れ落ちる涙を拭かず、静悟郎に言葉をつきつける。
「湾洞さん。私は、灯がここに私を連れてきてくれたことも含めて、何もかも、甘く見ていました」
「……」
「今は、灯がここに私を連れてきてくれた意味も、自分がしてきたことの重さも、ちゃんとわかります。あなたの助手を、私は絶対に裏切りません。約束します」
結衣は強く述べた。静悟郎はそれを聞いた後、灰皿のタバコの火を消した。クラゲは漂うのをやめたかのように、ただ浮いている。
「吉峰」
「はい」
「俺は絶対にタダ働きはしない。知ってるよな」
「……え、はい」
「お前、俺が葉山に代金を請求するとは考えなかったのか?」
「……あ、いえ、その」
「それをすると、お前はハイエナのように、弱りきった葉山につけこんで、金を巻き上げたことになる。俺の職業倫理は、部下のその行動にノーを提示する」
灯は、冷静に考えればわかったようなことを静悟郎に詰められ、何も反論できなかった。
「よって、代金は吉峰に請求する」
灯の表情は一転して明るくなった。
「それでいいんですか! まったく問題ないです!」
「灯! ダメだよそんな」
「別にダメじゃないだろ。お前がその後、吉峰に払えば済む話だ」
「そう! 湾洞さん、万事オーケーです」
「契約締結。始めるぞ」
静悟郎は立ち上がり、コツコツと作業場のほうへ歩いていく。灯は結衣の手を引き、それについていった。
「今から何をするの?」
「百聞は一見に如かず。だから連れてきたんだよ」
「そ、そう……」
無地の墓石に囲まれた作業場は、快晴の日差しが差し込んでおり、明るかった。灯は実際に何をするのかは静悟郎からは聞いていなかったので、とりあえず作業机の前に結衣を座らせて、自分は立って待った。
一度作業場の奥のほうに消えていった静悟郎が、すぐに戻ってきた。その手には真四角の、瓦のようなものを持っている。そしてそれを、作業机の上にゴンッと置いた。石である。そしてその石には、灯には見覚えのある文字のような何かが、ノートのようにびっしり彫られていた。
「いくつか方法はあるが、今回はこれを使う。葉山」
「……はい!」
「今から起きることは他言無用だ」
「……はい」
「あと、これから相当オカルトなことを話すが、気にするな」
静悟郎はそう言い、床に直置きしてあった加工中の石の上に腰を下ろした。
「それは『ツタイ』と呼ばれる道具になる。漢字なのか平仮名なのかは知らんが、そう呼ばれている。俺や吉峰のような、見える側の人間の感覚を、見えない側の人間と共有するための媒体だ」
灯は、その『ツタイ』をまじまじと見る。以前にも見た楔形文字のような何か。やはり何が書いてあるのかはわからない。
「まず、吉峰がこの石に手形を押すようにしてピタリと手を当てる。その手の上に、葉山が同じようにして手を当てる。そうしている間のみ、葉山に吉峰の感覚が共有される。やることはそれだけだ」
静悟郎は淡々とそれだけ述べた。灯はその男の言葉が足りていない確信があったので、問う。
「湾洞さん」
「なんだ」
「光りますか?」
「バカみたいに光る。五秒ほど」
灯は結衣の顔を見て頷き、結衣はしまっていたサングラスを取り出してかけた。灯は、周辺を少し探して、近くにあった暗めの保護メガネを装着した。
そして灯は、特に躊躇いもなく、スッと石の上に左手を置いた。冷たいはずの石から、じんわりと、確かな熱を感じる。その熱が少しずつ上がっていき、手と石の境界が曖昧になったほどで、まばゆい白い光を発し出した。
「わ! 湾洞さん! 光りました!」
先に言われていても驚くほどの強い光。静悟郎はいつの間にかサングラスをしていた。
「葉山、何が起きてるかわからないだろ」
「あ、はい……光?」
「早く手を当ててやれ。ダチの目が焼けるぞ」
結衣はそう言われ、すぐに灯の手の上に右手を重ねた。じんわりと、熱を感じる。それが人の熱なのか石の熱なのかは、手を当てた瞬間から判別不能だった。結衣の視界が光に包まれる。理解不能のオカルトが、感覚可能な現象に変わった。
──五秒ほど。静悟郎の言葉通りであった。石の光は弱まり、作業場は、太陽光が差しただけの元の明るさに戻った。灯は保護メガネをスッと外す。
「灯! 何、これ……!」
最初に口を開いたのは結衣だった。サングラス越しにも確認できる、初めて見る『バケモン』の姿。
「何に見える?」
灯は少し得意気に返す。結衣はその右手に確かに熱を感じながら、左手でサングラスを外し、浮遊する異物を目で追った。
「……クラゲ。ミズクラゲにイチゴクラゲ、カラージェリーフィッシュも、いっぱいいる」
大きな瞳をさらに丸くさせ、まるで水族館の水槽にかじりつく子供のような眼差しで、結衣はクラゲたちを見つめた。──きれい──。結衣は確かにそう呟いた。瞬きを忘れたその瞳が潤んでいく。
「灯には、このクラゲが見えてたの?」
「うん」
「いつから?」
「カフェで久々に会ったときから」
静悟郎はサングラスを外しながら、浮遊するクラゲの群れを見つめた。
「吉峰。ちゃんと説明してやれ」
「あ、はい」
灯は小さく咳払いをする。
「これはね、『水鏡』っていう、バケモンなの」
「バケモン?」
「湾洞さんはそう呼んでる。人間が精神を壊したとき、本当に極限状態になったとき、その人の心のそばに現れる。形は人それぞれだけど、どれもが水に棲む生き物の形をしてる。結衣の場合はそれがクラゲだった。水鏡は、クラゲについてる名前ね」
「精神を……壊したとき……」
結衣は灯の言葉を噛み締める。
「一万人に一人くらいは、自分に現れたものが見える。私や湾洞さんはもっとレアで、人のバケモンも見える。だから私、会ったときから結衣が、もうどうしようもないくらい辛いこと、わかってたんだ」
「そうだったんだ……。灯は、昔から見えたの?」
「ううん。私にも鯉が出てね。それから見えるようになった。鯉がいなくなったのも最近のことだよ」
結衣は、灯が自宅で言った『休職』という言葉を思い出した。そこでようやく、その右手のように、自分の苦しみを灯に重ね合わせることができた。
「私、昔クラゲになりたかった」
「知ってる」
「だからクラゲなのかな?」
「結衣の場合はそうかも。これは当人の認識とか、深層心理を象るらしいから。言うなれば、自分自身」
結衣はじっと目を細める。
「……今ね、イチゴクラゲがフワッと浮いたとき、アプリのアイコンに浮かび上がる通知みたいだなって思った」
「うん」
「SNSとか、周囲の人とか、数字とか。強い言葉を使うくせに、ただ流されて生きてるだけなんだ、私。弱いなぁ」
クラゲたちに夢中になるようだった眼差しが、暗く淀む。灯はそれを見つめながら、右手の上から感じる微かな震えに応えるように言葉を紡ぐ。
「クラゲってね。五億年以上前から地球にいるんだって。人間より、恐竜より、はるか昔から生き残ってきたって」
「……」
「それにね、海洋汚染にも強いから、他の生き物がどんどん減っていく中で、クラゲは増え続けたりするらしいよ。弱いどころか、すごく強いと思わない?」
誰にも気付かれなかったが、静悟郎は少しだけ口角を上げた。
「湾洞さんは大袈裟に言ったけど、私あんまりリスクとか考えてなくてさ。結衣が追い詰められてることが、私には想像以外でわかるんです。って、ちゃんと伝えたかっただけなの。見せたら早かったでしょう?」
「……灯、信じるよ」
「私のことは信じなくていい。今見えるこの光景。これを信じてくれたらそれでいい」
鼻の奥を突くような熱。涙があまりにも重すぎて、結衣は俯くしかなかった。クラゲたちは、沈み込むような動きを見せる。
カチッという、静悟郎のライターの音。マルボロから立ち上る煙が、窓から差し込む太陽光に映る。
「葉山。俺の仕事は、ここまでだ」
「……はい」
静悟郎はそう言って立ち上がり、事務所の中へ歩いていく。その足音が止むと、一瞬の静寂がもたらされた。
「ねえ、灯の鯉は、もう見れないの?」
「うん。私は、そういう対処をした。精神が安定して長い時間が経てば、自然にいなくなるらしいけどね」
「そっか。ちょっとだけ残念だな」
「そう?」
「見たかったよ。だって絶対、綺麗な鯉だから」
その日初めて、結衣は笑ってみせた。クラゲたちは二人の周囲を、渦巻くように漂った。




