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水棲の月  作者: 鯖林檎
第二章 泡影の海月
15/17

○ 5話


 灯は見出しをタップする前に、一度『天然箱ちゃん』のアカウントを見に行った。最新の投稿は昨日の何気ない日常のつぶやきだったが、コメント欄についた数字は異様に膨れ上がっている。


 それだけでなく、自分のタイムラインにも、彼女を痛烈に批判する言葉が容赦なく流れ込んでくる。これまで、ネットの炎上を『よくあること』と冷ややかに眺めていられたのは、自分が大人だからでも理性的だからでもなかった。──ただ、他人事だったから。灯はそう思い知らされた。


 一方的な言い分。静悟郎や岡井が口にしていたそれを、前提にしっかりと立てた上で、灯はネットニュースを開く。内容を追っていくと、やはりフラワーショップ岡井との一件について書かれていた。真相と書かれたそれは、駅前のベンチで岡井が話した内容とほぼ一致していた。


 記事によると、暴露系の動画投稿者が事件の場に居合わせていたらしく、当時は何も言わなかったが、今になって自身の投稿動画内で暴露したとのことだった。ニュースサイトのコメント欄には、達観して客観的な意見を述べる体をとりつつ、彼女を非難しているものが大量に並んでいる。


 灯はその暴露動画まで辿り着いたが、再生数やコメント数に目眩がしてしまった。岡井が店に受けた被害を目の当たりにしていたので、また同じようなことが、岡井あるいは結衣の身に起こるのではないか。そう考えるのは至極自然であった。耐えきれず、その動画を再生するには至れなかった。


 結衣とSNSを通して交換した連絡先。アプリを開いて彼女に連絡を取ろうとするが、静悟郎の言葉が頭を過り、指が止まる。


『──助けようと思ったら、助かるまで助ける必要がある。俺たちは、そこまでできる力も時間も持たない』


 今しようとしていることは、助手としての行動ではない。しかし、連絡して何になるのか。灯には何も考えつかなかった。単に友達を心配するだけの行為でも、彼女にとってそれをしてくれる相手は他にもたくさんいて、最近たまたま再会しただけの私に何かを言われるなんてことは、野次馬に突かれるようなことと同じではないのか。彼女を傷つけるだけではないのか。考えても答えが出ず、灯の指は動かなかった。



   ◇



 業者が軽トラックに墓石を積んで走り去っていく。その背中を見送るのが当たり前になった最近の灯は、この湾洞石材店が真っ当に本業で儲かっていることを実感していた。事務作業で売上のことはわかっているつもりであったし、自分の強気な給与交渉にも応じられる基盤があることも、理解はしていた。しかし根本的に、石が売れて儲かるという仕組みそのものに、感覚が追いつくのに時間が必要であった。


「ほれ」


 灯のデスクに置かれた深皿。湯気。ホワイトソースの香り。豚肉が入っているクリームシチューだった。


「え、なんですか、これは」

「クリームシチューだ。見たことないのか」

「そうじゃなくて、なんで」

「お前今日弁当持って来てないだろ。パンと白米、どっちだ」

「あ、白米で」

「だよな」


 静悟郎はシチューの横にコトッと、白米の盛られた茶碗を置いた。男が茶碗に盛る白米の量は、多い。灯は意表を突かれて遅れつつも「ありがとうございます、いただきます」と言い、キーボードをスッとデスクの奥に押しのけて、静悟郎の料理と正対した。


「食べながらでいいが、こないだお前が送ってきたクラゲのバケモンについてだ」


 既に白米を頬張っている灯は、一旦その声に振り返ったあと、シチューと白米を持って、静悟郎が見える位置の、来客用の机に移動した。静悟郎は引き出しに何かを探している。


「上手くまとまってはいなかったが、お前の言っていたことは概ね正しい」


 灯は、ガッツポーズの代わりにスプーンを強く握った。白米が進む。


「先代の資料曰く、周囲に流されて生きているだけ、と自己を卑下する感情が、精神を崩壊まで導くほど肥大する。俺もこのケースの依頼人を対処したことがある」


 静悟郎はそう言いながら、引き出しから何やらアンティークなスプーンを取り出した。


「ただ、お前の言うように、現代ではもっと、クラゲがモチーフとしてSNS社会の実態と強く紐づきやすいのだろう。それならば、近年クラゲのバケモンが異様に増えていることに説明がつく」

「そんなに増えているんですか?」


 咀嚼とのタイミングが合ったので、灯は言葉を返した。静悟郎はシンクのほうに向かい、スプーンを洗う。


「ああ。俺は依頼を対処するだけで分析することはなかったが、街中で見かける数は、昔に比べて圧倒的に増えた。この『クラゲは脳がなくても反応で刺胞を使って攻撃する』というあたりも、現代人の『クラゲ化』を上手く捉えている」

「なんか、久々に褒められた気がします」


 静悟郎はスプーンを拭いて自分の机に戻った。


「意思なく漂う自分になってしまうほどの海流。それが現代には多すぎるのだろう。婆さんの資料は古い。俺にもわからないことが多い以上、時代に合わせて加筆していく必要がある。お前の説は、それに使える出来だ」


 静悟郎はそう言いながら、自分の分のシチューを食べ始めた。彼のお供も白米であった。


「私の惑い鯉のときと、本質的なところは近いんですね」

「ちなみにだが、そのクラゲは古くから『水鏡(みずかがみ)』と呼ばれていたそうだ」

「ずいぶん綺麗な名前ですね」

「クラゲは綺麗だからな」


 灯は、ふとクリームシチューの具材が気になった。豚肉、ほうれん草、かぼちゃ、エビ、多分あとから追加したゆで卵。あと、芯の部分がないが、白菜も入っている。──美味しい。自分が作るときには、この具材のラインナップには絶対ならないのだが、このレシピも師匠からの伝承なのだろうかと想像した。


「湾洞さんのお師匠さんって、石屋さんだったんですか」


 灯はついでに気になっていたことを聞いてみる。


「石屋は副業だった。精神科医だ」

「……パワフルな方ですね」


 現代では想像できない働き方。静悟郎の食べるペースは早い。


「婆さんが資料を山ほど書いたのは、患者を診てきた結果だ。医療に従事しながら、バケモンの入口から出口までフォローしていた」

「すごいですね。ちなみに、先々代もいたんですか?」

「ああ。平たく言えば家業だな」


 家業。ということは、見える見えないは遺伝するということなのだろうか。灯はそれが気になったが、ならば何故、先代が静悟郎の親ではなく祖母なのか、という疑問に、プライベートな事情がありそうだと察して、聞くのをやめた。


「あと、最近元気のないお前に、ひとついい知らせがある」


 灯は背筋を強張らせ、スプーンを止めた。また『フキハラ』をしていたんじゃないかと、自分を疑う。


「岡井の店、もう再開するそうだ。店に貼り紙がしてあった」

「え! よかった!」


 瞬時に心中の『フキハラ疑念』が吹き飛ぶ。再開したスプーンは最後の一掬いまで止まらなかった。


「ごちそうさまでした! 美味しかったです」


 灯はリズミカルな歩調をとりながら、食べ終わった食器をシンクに運ぶ。それを洗おうと袖をまくったところで、ポケットの中のスマートフォンが長く震えていることに気付いた。ポケットから取り出し、画面を確認すると『葉山結衣』の文字。


 ──何か起きたんだ。灯の直感はただそう告げて、すぐに受話のスワイプに指が走った。


「もしもし」

「灯、あのさ、見たと思うんだけど」

「う、うん」

「……」


 結衣の無言が続く。灯は何も言わずに待つ。長い無言の末、結衣の一言。


「……助けて」


 再会したときとも、動画で見るときとも、全く違う、詰まり切った声帯から絞り出すようなトーンで、たった二言目に出てくるSOSであった。


 ──『(わら)にもすがる奴らの、藁を取り上げるな』


 静悟郎の言葉が灯の脳裏を過る。


「わかった。私は、何をすればいい?」


 考えるより先に言葉が出ていた。


「……どこにも行けない、帰れない」

「私の家に来ればいいよ。前会ったカフェ、来れる?」

「……うん」

「今から来れる?」

「……うん」

「私も今から行く。先に着いても、店の中に入らなくてもいいからね」

「……うん。ありがとう」

「一応マップで位置送っとくから、気を付けて来てね」


 通話が切れると、灯は皿を水にだけ浸けて、手を拭いた。様子を後ろから見ていたであろう静悟郎のほうを振り返る。


「湾洞さん、早退させてください」

「別に構わんが、どうした」

「私、今『藁』なんで」


 灯はそう言い残し、急いで鞄を持って店を飛び出した。

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