〇 4話
「湾洞さん」
「なんだ」
灯は事務デスクの椅子をクルリと半回転し、自分の机で新聞を読む静悟郎に話しかけた。コーヒーカップの湯気が、灰皿から立ち上る煙草の煙と混ざっている。
「前に、バケモンが見える確率は一万人に一人って言ってたじゃないですか」
「だいたいな」
「なんでそんなに少ないんでしょうか」
「知らん」
灯の脳裏に浮遊する、結衣のクラゲ。見知らぬ他人のバケモンなら、割り切れたのかもしれない。かつての友達が、あの頃の自分と同じように、心を壊しながら『天然箱ちゃん』の仮面を被っている。思考は絡まるばかりであった。
「原因じゃなくて結果って、湾洞さんは言ってましたけど、回復を促していくと考える場合、見えるか見えないかだけでだいぶ違うと思うんですよね」
静悟郎は一度コーヒーカップに手を伸ばしたあと、改めて煙草のほうを手に持って吸った。
「人によるだろうな」
「その心は?」
「……現代は、精神医療が発展している。見える見えないというのは、客観的には、幻覚付きの疾患かそうでないか、その差しかないことになる。やることは結局一緒だ。お前だって、まだ薬飲んでるだろ」
「そうですけど」
静悟郎の、煙草を灰皿に押し当てる音。コーヒーカップとソーサーが触れ合うカチャリという音。
「吉峰」
「はい」
「たとえば、バケモンを発現していて、本人はそれが見えていない。そんな奴を見つけた場合、お前は『助けたい』と思うんじゃないか」
「まぁ、そうですね。ダメですか?」
「ダメだ」
「なんでですか? そういう仕事だと思ってますけど」
静悟郎は新聞を折りたたみ、机の上に置いた。
「いくつかある。ひとつは、助けられやしないってことだ」
「……でも、依頼主は助かりますよね?」
「対価を得て頼みを叶える。それだけだ。助けるってのは、相手が助かって初めて使える言葉だ。こちら側が助けようと思うなら、助かるまで助ける必要がある。俺たちは、そこまで出来る力も時間も持たない」
「……なるほど」
灯は、聞くべき話を聞いていると思い、自然と背筋が伸びてしまっていた。
「次に、バケモンが発現している人間にこちらから近付くのは、単に危険だ」
「え? バケモンは人に危害を加えない、って言ってましたよね」
「岡井の一件を見ただろ。危害を加えるのは、人間のほうだ」
スプレーの落書き、アスファルトに横たわる花々。土の匂い。灯の脳内にフラッシュバックする。
「……そうでしたね」
「お前は追い詰められて閉鎖的になったが、攻撃的になる人間もたくさんいる。そういう人間は何をしでかすかわからないが、俺たちは見える側だ。近付かない、避けることができる」
「でも、他人のものまで見える私たちがそれを無視したら、一体誰がこの仕事をやるんですか」
「逆だ。レアな俺たちが殺されでもしたら、一体誰がこの仕事をやる」
──殺される。考えてみればすぐわかりそうなことに、灯は初めて気付かされる。
「善だの倫理だのの話はしない。俺はこの仕事をこの世の必要な機能だと解釈している。それが失われることは絶対に避けるべきだ」
「……はい」
「お前に届きやすいように言う。藁にもすがる奴らの、藁を取り上げるな。そういうことだ」
静悟郎の言葉は、本人の言うよう、確かに灯に届いた。
「わかりました。すみません、コーヒー冷めちゃいますね」
「……熱いのは苦手だ」
◇
日は暮れて、帰宅するなりすべての生活タスクを先に済ませた灯は、自宅のパソコンに向かい、クラゲについて調べる。静悟郎に助手としての在り方を説かれ、この職業への理解と姿勢を深めたくなったので、まずは鯉のときのよう、自発的に仮説を立てつつ考えようと決めた。
(バケモンって、参考文献とか一切ないからなぁ)
(湾洞さんのお師匠さん、秘伝書とか書いたのかな)
わからないことは静悟郎に聞けば済む。しかし、それしかできないのであれば、その手軽さに甘え、いつしか聞いたことを忘れるだけになるだろうと、灯は自分を戒めた。アップルティーを飲むと、いつもの無糖が味気なく感じたので、砂糖を入れる。
クラゲ。まずイメージしたのは、水族館で綺麗に展示されるクラゲであった。本来の生態ではなく、照明などを駆使され、人間が『綺麗だ』と思うように展示される。インターネットやSNSに思考を乗っ取られているような結衣の会話から、SNSに着飾ることを無意識に強いられてしまうような、そんな印象が紐づいた。
(その解釈はちょっと現代的すぎるかな)
水族館やSNSというものの近代性から、説が少し弱く感じた。やはり鯉のときのように、クラゲの生態そのものが関連しているのではないか。灯は更に詳しく、クラゲの生態を調べていく。
『クラゲは泳いでいるのではなく、漂っている』
聞いたことがある知識だった。一般教養といえばそうであるし、習ったような気もするし、どこでも見る話にも思える。というより、灯の頭の中で、何かがひっかかるような、もどかしさがあった。
『クラゲには脳がなく、全身に広がる神経網で、光や刺激に反応するだけ』
既視感である。その二つを読んだ時点で、灯は思い出した。その記憶の真偽を確かめるべく、パソコンデスクから離れてクローゼットを開き、足元に小さな脚立を開いて、上のほうにしまっている段ボールを下ろした。中には実家から持ってきた大切なものが詰まっているが、上半分は推しのグッズと、宮本武蔵や新撰組の小説ばかりだった。
(──あった)
中学校の卒業文集。めくるは、葉山結衣のページ。灯の記憶は正しかった。『クラゲになりたい』というタイトルの葉山結衣の作文が、彼女の端正な直筆で綴られている。その中に、灯が先ほど調べたことはほとんど書かれていた。
中学生のときには詩的でよくわからなかったその作文の意味が、今の灯には理解できた。皆に優しく、裏表のない、頭の良い結衣が、周囲の人間という波に抗って生きていたこと。クラゲのように漂って生きられたらどれだけ楽なのかと、そう書いてある。
(そっか。バケモンは本人の認識、だ)
灯は段ボールの奥底から、いなくなってしまったと思った友達を掘り起こす。そのまま記憶も掘り起こしていくと、結衣は『葉山』からもじった『ハコ』や『ハコちゃん』というあだ名で呼ばれることがあった。天然、ありのままの自分。灯はハンドルネームの由来を推測する。
灯は、結衣が追い詰められてしまった自分に、かつてなりたかったクラゲを重ねていることに、どうにも切なくなってしまった。全文をしっかりと読み、段ボールの片付けは後回しにして、パソコンデスクに戻る。
以前とは違い、静悟郎の連絡先を知っているので、灯はクラゲのバケモンについての仮説をメールでまとめて送ることにした。
水族館、照明の展示。水分でできた体、脳の不在。泳がず、流れに漂う、外部情報に流されるSNS依存。主体の喪失。光や刺激に反応する。反応しかできない。思考の停止と放棄。評価基準の破壊。いいね数フォロワー数の洗脳。省エネの生態。手軽さへの逃避。ベニクラゲの不老不死といつまでも綺麗な女性。刺胞。高い攻撃力。反応としての刺胞攻撃。
そうして考えたことを、次はつなぎ合わせて、文章にまとめ上げていく。終わる頃には日付が変わっていた。
灯は疲れた肩を回しながら、──おそらく上手くまとまっていなくても、湾洞さんが要約してくれるだろう──と、タカを括って、あまり見直さずに静悟郎に全文を送信した。すっかり冷めたアップルティーを飲み干す。砂糖が溶け切っていなかったようで、底のほうがジャリジャリとして甘かった。
考えるという作業が終わったことに心身の解放を覚えた灯は、パソコンを閉じてすぐ、ベッドに寝転がった。スマートフォンでいつものニュースサイトを開く。静悟郎の言うように、どうせくだらないニュースを見るのだなと、頭では理解しつつも見てしまう。並べられた見出しに、クラゲのようにただ反応する日々。
しかし、一つの見出しに鼓動が大きくなる。その反応は、体表の神経ではなく、胸の奥の想いに由来していた。
『人気インフルエンサー「天然箱ちゃん」炎上。暴露動画投稿者が”裏の顔”告発。活動停止か』




