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水棲の月  作者: 鯖林檎
第二章 泡影の海月
11/17

〇 1話


 東京都調布市。小さな駅から歩いて7分。看板だけが残る潰れた病院の斜向かい、湾洞石材店。無地の墓石が並ぶ店頭の奥には、石の乾いた匂いと煙草、あるいは線香のような匂いの混じる作業場と事務所があった。


 事務所は店主である湾洞(わんどう) 静悟郎(せいごろう)の自宅に続いており、外側からは広々とした敷地に見える。大手商社を休職中の吉峰(よしみね) (あかり)が、副業で助手としてそこに出勤するようになってから、およそ三週間が経過していた。


「湾洞さん」

「なんだ」


 事務所でパソコンに向かっていた灯は、タイピングの手を止めて、椅子ごとクルリと振り返りながら、競馬新聞を読む静悟郎に話しかけた。


「湾洞さんって、基本黒スーツじゃないですか」

「今更だな」

「なんでですか? 服、持ってないんですか?」

「言うようになったなお前。ここには、墓石を選ぶ人間が客として来るだろ。俺は常に喪に服しているだけだ」

「なるほど」


 灯は一応納得できたが、静悟郎の鋭い目付きを始めとするテンプレートのような『悪人顔』と、ドスの効いた低音ボイスが、一見の客を怖がらせるシーンを何度も見てきたので、可哀想だなと感じた。客商売も楽ではない。


 一方で、いわゆる『キラキラOL』として社会生活を送ってきた灯は、どこの客先でも失礼のない身嗜みに、手入れの行き届いた長めの髪と、地に足のついたスマイルが武器だと自負していた。


 灯は椅子をクルリと半回転させ、パソコンに向き合う。一応業務中ではあったが、静悟郎が競馬新聞を読んでいるのだから、ニュースサイトを見ても構わないだろうと判断し、お気に入りバーをクリックしてページを開いた。すると、トップに立ち並ぶ文字の中に、見慣れた店の名前を見つけた。見間違いではなかった。


「え! 湾洞さん!」


 灯は思わず声を上げた。


「駅前のお花屋さん、ネットニュースになってますよ!」

「花屋なんてあったか?」

「ありますよ! フラワーショップ岡井です!」

「ああ、あったような気がするな」


 興味のなさそうな静悟郎に少しムスッとしながら、灯はネットニュースの内容を読み進める。公開日時は昨晩を記している。そして騒いだ手前言いづらかったが、良いニュースではなかった。


『ドタキャンにインフルエンサー激怒』


 イベント用に依頼されていた花の提供を、フラワーショップ岡井が当日にキャンセル。それを依頼主のインフルエンサーに晒され炎上している、という内容だった。ニュースのコメント数は夥しい。とてもじゃないが、一つ一つ見てはいられない。


「くだらないニュースだな」

「うわびっくりした」


 いつの間にか灯の背後に来ていた静悟郎に、灯の肩が跳ねる。少し心拍が上がったが、一目見ただけのニュースをぶっきらぼうな一言で斬る彼に、自分の意見をぶつけてみたくなる。


「でも、酷くないですか? 当日のドタキャンですよ。イベントは台無しになっちゃうわけですし、大手ならあり得ない話です」

「吉峰」

「はい」

「これは一方的な言い分だろう。今お前がそう思ったように、そう思うようにするのが、ネットニュース運営の仕事だ」


 灯は諭されるように言われ、素直に納得してしまった。立ち並ぶ見出しの数々。それは確かに『ただの文字という情報』であり、舐めるように辿ってみても、経緯や事柄の全てが記されているわけではなかった。しかし灯は、そのニュースに記されたインフルエンサーの名前を見て、また引き込まれる。


「あ、これ『天然箱ちゃん』だ!」

「なんだそれは。バカみたいな名前だな」

「私と同い年のインフルエンサーですよ。XとかインスタとかTikTokとか、色んなSNSでバズってる女の子です。私もフォローしてます」

「オモチャでハシャいでるガキってことか」

「なんか偏見ありません!? 訂正を求めます!」

「悪い悪い。で、その箱さんは、何をされてる方なの」

「天然箱ちゃんはですね」


 灯は短い咳払いをする。


「可愛いだけじゃなくて、コスメとかグルメとかの動画が面白いってところから話題になって、最近では絵や詩を描いたり、文章の投稿も面白いって、色んな方面でどんどん人気が出てきてる女の子なんです」

「ほーん」


 早口で説明する灯に、静悟郎はやはり興味がなさそうな顔をして、煙草に火をつけながら自分の椅子に戻っていく。灯はまたしてもムスッとしながらそれを見届け、またパソコンの画面に視線を戻したが、背後で静悟郎がボソッと一言だけ──御愁傷様だな──と低い声で呟いたのを、聞き逃さなかった。


    ◇


 昼休憩にコンビニに向かう灯。青空の下を軽い足取りで、時折、街路樹に留まる鳥を眺めながら、歩く。今日は弁当を作ってこなかったために、こうしてコンビニに行くことになったのだが、清々しい天気に『たまには悪くない』と感じた。


『──ついでに煙草買ってきてくれ。赤マルのボックスだ』


 パシリのように煙草のおつかいを頼まれてしまったが、煙草なんて一度も買ったことがないので、違う銘柄を買って帰ってしまっても絶対に謝らない、とだけ決めながら、歩く。


 石材店周辺では、まず駅前まで行かないとコンビニがない。そのため灯は駅に向かっていったのだが、視線の先に、この地域にそぐわない異様な人だかりを見つけた。脳内でその場所と今朝のニュースが紐づく。フラワーショップ岡井である。とすれば、あれは野次馬ということになりそうだが、灯は気になって、少し近くに行ってみることにした。


 しかし近付くにつれて、空気の不穏さを肌にひたひたと感じていく。その予感を確かにしたのは、人間の『声』であった。


「散れ! なんだお前ら!」


 大きな怒声。人だかりの向こうから聞こえたそれに、灯は驚いて立ち止まる。そこで一瞬で冷静になったのか、怖気付いたのか、自分の野次馬根性を恥じつつ立ち去ろうとしたが、人だかりが退いていったため、視線のまっすぐ先に怒声の主を捉えてしまった。おそらく六十代の、エプロンをした白髪の男性。毎日そこを通る灯には、それがフラワーショップ岡井の店主だとすぐにわかった。


 店主の手には、勢いよく水を噴き出す緑色のホースが握られている。濡れながら散るように逃げていく野次馬たち。それらを視界の端に退けながら、灯の目を釘付けにしたのは、胸の奥にチクリとくる光景だった。

 店先の花々が、ぐちゃぐちゃに倒れている。そして壁には、スプレーか何かで書かれた『死ね』『殺す』の文字。灯はそれを見て、無心に、店先へ真っ直ぐ進む。


「おい! お前!」


 店主は向かってくる灯にも怒声を浴びせ、勢いのまま、ホースで水まで浴びせた。


 しかし灯は、怯むことなく、そのまま店先まで行って、腰を落とし、横たわる花の鉢を、ひとつひとつ真っ直ぐに立てていった。店主は虚を突かれたように立ち尽くす。


「お花の最期は、枯れるときです」


 花を見つめながら灯が発した一言に、店主は我を取り戻す。すぐさまホースをその場に放り投げ、急いで店の奥に駆けていき、手にふかふかのバスタオルを持って戻ってきた。


「ごめんよ、お姉さん。ごめんなさい……」

「全然大丈夫ですよ」

「あとは私がやるから、これで頭拭いて」

「すぐ乾きますよ。こんなに天気がいいんですから」

「風邪ひいちゃうよ! 本当、ごめんよ……」


 店主は、灯の濡れた長い髪に、優しくバスタオルをかける。灯は軽くぽんぽん、と拭いたあと、タオルを首にかけ、すぐに花を直す作業に戻った。店主もそれを見て、腰を屈めて灯と同じようにした。


 花々を元に戻しながら、灯は今この店に起きたことをそれとなく理解し、また、静悟郎の『御愁傷様』という言葉の意味を、改めて理解した。





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