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水棲の月  作者: 鯖林檎
第二章 泡影の海月
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〇 2話

 

 まだ日の高い時間にシャッターを閉める花屋。それが文字通りの普通の光景でないことを、店の壁に書かれた罵詈雑言が示している。店先にはまだ、溢れた土の跡がある。灯はひと段落ついたとして立ち去ろうとしたが、店主の岡井がそれを引き止めた。


「せめて、お昼くらいご馳走させてくれんか。そうでもせんと、お天道様に顔向けできん」


 何度も頭を下げる岡井に灯は根負けするが、ふと、マルボロのおつかいのことを思い出す。


「岡井さん、赤マルっていう煙草、わかりますか? 多分マルボロってやつなんですけど」

「え? ああ、わかるぞ。12ミリのな」

「今、上司からおつかい頼まれちゃってて、どれか教えてもらえます?」

「勿論! むしろ、私に買わせてくれ」


 岡井の表情は少し朗らかになった。二人は、自然とコンビニへと足を進める。灯は騒動について触れるべきか迷ったが、岡井のほうから触れられた。


「最近の世の中は、怖いよ」

「……ネットニュース、見ました」

「そうかい。年寄りに、少しくらい言い訳させてくれんか」

「言い訳なんかじゃないですよ。何かあったんでしょう」


 こうなるとコンビニまでが近すぎると灯は思ったので、コンビニが見えるベンチに腰を下ろして、岡井にも座るよう促した。岡井は『よっこらせ』と言いながら、灯の隣に座って、口を開く。


「私はね、お花は、ちゃんと納品しに行ったんだよ」

「……え?」


 灯は、生身の人間の声が、電子の文字よりもずっと胸の奥に届くことを、一瞬で理解した。


「書かれてなかったろう。行ったんだよ、ちゃんと。毎日毎日、欠かさずに水をあげて、育てたたくさんのお花を持ってな」

「そうだったんですか……」

「会場に着いてな。トラックからお花を降ろしているときに、依頼の子が来ての。その、芸能人みたいにキラキラした、たぶん君くらいの歳の子だよ」


 依頼主はインフルエンサーの天然箱ちゃん。記事にはそう書かれていた。おそらく岡井の話の子もそうだろうと、灯はひとつひとつ擦り合わせていった。


「作業の途中だったからの。軽く挨拶だけして続けようとしたんだが、その場にいた人たちが、なんも言わず私の作業を手伝ってくれての」

「ええ」

「私も年寄りだし、有難いなと思ったんだが、どうにも手荒に、ズガズガとお花を扱う。まぁプロではないし、そんなもんかと思って、何も言わんかった」


 思っていても何も言わない。灯は少し、以前の自分を思い返していた。


「そんで、降ろし終わった後、私のほうから礼を言って、請求書を渡そうとした。そしたらの、依頼の女の子が、ヒラヒラっと。私の足元に紙を投げた。一万円札だった」

「……」

「金額が安すぎることは、まぁ、物の価値を知らん人もいる。仕方がない。だが、請求書を受け取ろうともせんで、それはなかろう」

「……ひどい話ですね」


 静悟郎の言葉が思い起こされる。一方的な言い分。岡井の声が握りつぶされた、仮初の真実。


「事前の見積書の提示に返事がなかったこと。私は、それをもっと注意深く考えるべきだったと思ったが、仕事だからの。ちゃんと、請求書を見て、その金額を払ってくれと、その場でしっかり伝えた」

「……」

「そしたらの。物を持って来ていきなりゴネるなんて詐欺師か、そんなに金が欲しいか、と、その場の大勢の前で罵られた。今は反省しとるが、私もさすがに頭に来てな。そんな奴にこのお花は渡せんと、啖呵を切ってしまった」

「それはそうですよ……」

「それで向こうも頭に来たのか知らんが、更にお金をばら撒いての、これで花は買ったんだから好きにさせてもらうとか言って、私が持って行ったお花たちを、その場にいた奴らで、そこにぶちまけた」


 岡井の声色が震えている。下唇を噛むその震えが、怒りではなく悲しみであることが、灯には伝わってきたので、何も返せなかった。


「相手にも商売の顔があろう。私は、呆れたのもあったが、黙ってお金を受け取って、帰った。その後も口を噤んだ。それがこうなった」

「……なんでこうなってしまうんでしょうね」

「まぁ、今の話は結局、私の一方的な言い分だ。その場にいなかった人に、本来するべき話じゃない。すまなかったね。愚痴をこぼして」


 岡井はそう言って立ち上がり、にこりと笑ってみせた。青空がよく似合う、花屋の店主らしい立ち姿だった。灯はただそれに応えるように、何も言わずに立ち上がった。


「お姉さん、名前を聞いても?」

「吉峰です。吉峰 灯です」

「良い名前だね。店が再開したら、お花、サービスするよ」

「ありがとうございます!」


 灯は空腹でお腹が鳴ったのを、元気な返事で誤魔化してみせた。



    ◇



「なんだ、イメチェンしたのか」


 髪と服を濡らした灯が事務所に帰ってくると、静悟郎は読んでいた本から目線だけ外してそう言った。


「ちょっと天気が良かったので水浴びです。あ、これ『赤マル』です」


 灯はそう返しながら、袋から赤マルのカートンを取り出して、ひょいと投げた。静悟郎はそれを片手でキャッチする。


「一箱分しか金渡してないだろ。気前まで良くなったのか?」

「違いますよ。岡井さんが買ってくれたんです。あー、お腹空いた」


 静悟郎はその一言に、ジッと灯の様子だけ伺い、何も言わなかった。


 灯は、袋の中から取り出したサラダパスタをパキパキと開けて、勢いよく食べ始める。微かな咀嚼音と本のページをめくる音だけがする静かな事務所に、それとなく、彼女の苛立ちに由来する不穏が満ちる。空気感染したその不機嫌に、静悟郎の口が開く。


「……そんなに腹が減ってて、なんでサラダパスタなんだ。唐揚げ弁当とかチャーハンとかあるだろ」

「いいでしょ。人が何食べてたって」

「あとお前、奢ってもらったなら、俺の分も買ってきてくれてもよかったろ」

「タバコ買って来ました! それいくらすると思ってるんです? あと湾洞さん、いつも昼になると家に戻って、自分で作ったご飯をここに持って来て、見せびらかしながら食べるじゃないですか。たまには私の分も作ってくれたらいいのに」


 灯がそう言ったところで、静悟郎は黙って本を閉じて、事務所の奥の方に消えていった。


(まーた自分の分だけご飯作るんだ)


 そう思った灯は無言でサラダパスタを食べ続けたが、八つ当たりしている自分に確かな嫌気を覚えていた。咀嚼音だけが聞こえる部屋。灯のフォークは、事務所に戻ってきた静悟郎に遮られた。


「ほれ」


 静悟郎はドライヤーを渡す。


「さすがに自分で乾かせよ」

「……ありがとうございます」


 灯はすぐにドライヤーで髪を乾かし始める。ネットでよく話題にあがる高級なドライヤー。なんでこんな高価な物を短髪の男が持っているんだ、と心の中で呟きながら、その髪はすぐに乾いた。


 音が鳴り止んだタイミングで、静悟郎は切り出す。


「お前、花屋の件に首突っ込んだんだろ」

「……はい。すみません」


 灯は、結局言われたかった言葉を言わせたことについても申し訳なく思った。これが不機嫌ハラスメント、いわゆる『フキハラ』であると、自身で省みた。しかし静悟郎は淡々と返す。


「謝ることじゃない。おおかた、花屋の店主が水ぶっかけて野次馬を追い払うとこに居合わせた、ってとこだろ」

「……なんでわかるんですか」

「勘だ。で、どうだった」


 灯は岡井の言葉を思い出し、誰であろうと先の話を広めてしまうのは『違う』と、自分の倫理観に基づいて一本の線を引いた。


「いや、詳しくは言えません」

「そうじゃない。見えたか?」

「何がですか」

「お前な」


 静悟郎は溜息をつく。


「何のためにここで助手をしている。バケモンだよ。岡井にバケモンは見えたのか?」


 灯はハッとした。まだ新しい記憶を遡ろうとしたが、遡るまでもなく答えは明らかだった。見れば、すぐに気付く。そして同時に、岡井の強さを知る。


「……いえ、見えなかったです。何も」

「そうか。それなら心配無用だろ」


 灯は、だいぶ遅れて胸を撫で下ろした。そして静悟郎の言うようにチャーハンを買ってこなかったことを、今更後悔した。


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