第4話
第4話 武田という影、あるいは、震える鉄
最後の一人。名前は「武田」。
くたびれた安物のスーツに、少し猫背な姿勢。中小企業のしがない営業マン。これまでの皮の中で、一番地味な男だ。
鏡の前で、武田の顔を作った。
うまくできなかった。
もう一度やった。今度はできた。
俺はそれが気になったが、考えないことにした。
優子は、昼はパート、夜は内職をして幼い娘を育てていた。
指先が荒れていた。美咲よりも荒れ、由紀よりも硬くなっていた。生活そのものが、毎日この女の手を削っている。
俺は娘を連れて通う公園で、偶然を装って接触した。
初日、娘が転んだ。俺は近くにいたので、何も考えずにしゃがんで膝の砂を払った。優子が「すみません」と言った。娘は泣かなかった。
それだけだった。だがそれで十分だった。
三日後、公園のベンチで優子が笑った。
娘が鳩を追いかけていた。優子はそれを見て、疲れた顔のまま、目尻に皺を寄せて笑った。
俺は武田の顔のまま、その笑い方を見た。
一秒か、二秒か。
何かが、喉の奥に引っかかった。
俺はそれを、飲み込んだ。
二週間かけて、武田の話を積み上げた。
小さな会社の資金繰りが苦しい。銀行には断られた。あと少しだけ時間があれば立て直せる。使い古したシナリオだが、優子には有効だった。優子は疑わない女ではなかった。ただ、信じると決めたら深く信じる女だった。
それが分かったとき、俺の中で何かが、静かに冷えた。
喫茶店。窓際の席。
優子がテーブルの上に封筒を置いた。
「武田さん、これを。あなたの会社の再建に使ってください」
俺は封筒を見た。
「亡くなった夫が残してくれた保険金の一部です。娘の将来のためにとっておいたんですけど……武田さんが立て直してくれたら、きっとそれでよかったってなると思うから」
優子は少し笑った。目尻に皺が寄った。
俺の手が、テーブルの下で止まった。
封筒を取れ。これで八百万が揃う。姉さんの治療費が足りる。手を伸ばせ。
手が動かなかった。
「武田さん?」
優子が首を傾けた。
「……すみません。少し」
俺は封筒を掴み、カバンに押し込んだ。
そのまま立ち上がった。勘定を置いて、店を出た。
優子が後ろで何か言ったが、聞こえなかった。
聞こえないふりをした。
アパートに戻り、金を机に置いた。
八百万、揃った。
アイロンを出した。電源を入れた。ランプが赤くなるのを待った。
窓の外は暗かった。
机の端に、あの焦げた一枚がまだあった。三話前から、捨てられないままそこにある。
霧吹きを手に取った。
そのとき、廊下で足音がした。
一つではなかった。
俺はアイロンを持ったまま、動かなかった。
足音が止まった。
ドアを叩く音がした。
「警察です。開けてください」
俺はアイロンを、そっと机に戻した。
熱いプレートが、机の木肌に触れた。かすかに焦げる匂いがした。
俺は立ち上がり、ドアに向かった。
鍵を、自分で開けた。
踏み込んできた男たちの中に、見覚えのある顔があった。
白衣を脱いで私服を着ていたが、分かった。
美咲だった。
彼女は俺を見た。俺も彼女を見た。
美咲の目には、怒りがあった。それだけではなかった。もっと別の何かがあった。だが俺には、それが何かを考える時間がなかった。
男たちが俺の腕を掴んだ。
俺は抵抗しなかった。
連行される廊下で、俺は一度だけ部屋を振り返った。
机の上に、アイロンがあった。
ランプは、まだ赤かった。
机の端の、焦げた一枚も、まだそこにあった。




