第3話
第3話 橋本という灯、あるいは、濁った水
「工藤」のライカを質に入れた。
次の皮の準備に、五日かけた。
名前は橋本。清潔感のあるチノパン、アイロンの効いた白シャツ。NPO法人で子どもの支援活動をしている、という設定だ。少し日焼けした肌にするために、三日間、昼間に外を歩いた。
鏡の前で橋本の顔を作る。
佐藤は誠実な青年だった。工藤は遠い目をした男だった。橋本は、穏やかに笑う。目尻に力を入れない。口角は控えめに。この男の笑顔は、何も要求しない。
それが一番、警戒を溶かす。
ターゲットの由紀は、下町の小さな保育園に勤める保育士だった。
二十九歳。一人暮らし。給与は低い。SNSには保育園で育てている朝顔の写真が並んでいる。子どもの顔は映っていない。気を使っているのだろう。休日の投稿は少ない。
俺は保育園の近くの公園で、ボランティアを装って接触した。
初日、彼女は俺に気づかなかった。
二日目、会釈だけだった。
三日目の夕方、公園のベンチで休んでいると、由紀が隣に座った。
「ここ、毎日来てますよね」
橋本は、少し照れたように笑った。
由紀は話しやすい女ではなかった。
愚痴を言わない。自分の話をしない。俺が何かを言うと、少し考えてから返す。その間が、美咲とも恵里とも違った。
一週間かけて、俺は橋本の夢を語った。親のいない子どもたちのための、小さな図書室を作りたい。予算が足りなくて、今年中に動けるかどうか分からない。
由紀はそれを聞いて、何も言わなかった。
翌日、彼女はまた公園に来た。
「橋本さん、図書室の話、もう少し聞かせてもらえますか」
俺は橋本の顔で、丁寧に話した。
ある日の夕方、由紀がブランコに座っていた。俺が隣に立つと、彼女は前を向いたまま言った。
「うちの園の子でね、誰も本を読んでくれないって言う子がいるんです。親御さんが忙しくて」
それだけ言って、続きを言わなかった。
俺も何も言わなかった。
夕暮れの公園で、二人分の沈黙があった。
橋本なら、ここで何も言わない。だから俺も何も言わなかった。
ただ、その沈黙の重さが、これまでと少し違った。俺はそれに気づかないふりをした。
十日後、由紀は定期預金を解約した二百万円を、封筒に入れて持ってきた。
「子どもたちの本のために、使ってください」
俺は封筒を受け取った。
指先が、わずかに遅れた。一秒か、二秒か。ほんの少しだけ、受け取る動作が止まった。
由紀は気づかなかった。
橋本は「ありがとうございます」と言った。頭を下げた。それだけだった。
帰り道、俺は封筒の重さを確かめるように、鞄の中で一度だけ握った。
アパートに戻り、金を机に置いた。
六百万。残りは二百万だ。
アイロンを出し、電源を入れた。
ランプが赤くなるまで、窓の外を見ていた。特に何も考えていなかった。少なくとも、そのつもりだった。
一枚目に霧吹きをかけ、アイロンを押し当てる。
ジュッ。
また一枚。
百枚目のとき、プレートの角が紙幣の端をわずかに焦がした。
かすかな焦げ臭が、鼻をついた。
俺は手を止めた。
焦げた札をゴミ箱に向けて持ち上げ——そのまま、机の端に置いた。
自分でも、なぜそうしたか分からなかった。
作業を再開した。残りの百枚を終えるのに、いつもより時間がかかった。
病院の廊下は、今日も白かった。
302号室に入ると、姉は目を閉じたままだった。
俺は椅子に座った。
いつもは姉の手を取る。今日は取らなかった。取れなかった、かもしれない。
姉の呼吸は静かで、規則的だった。
俺はしばらくそれを聞いていた。
何も言わずに立ち上がり、病室を出た。
アパートに戻ると、アイロンはもう冷えていた。
机の端に置いた、焦げた一枚がまだあった。
俺はそれを手に取り、しばらく見た。
それから引き出しを開け、最後の資料を取り出した。
シングルマザー。
これが終われば、八百万が揃う。
俺は資料を読んだ。文字は、普通に読めた。
ただ、机の端の焦げた一枚が、視界の隅にあった。




