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日本で一番悪い奴  作者: 水前寺鯉太郎


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第2話

第2話 工藤という翼、あるいは、無機質な夢 


 「佐藤」の死は、三枚の領収書をシュレッダーにかけるだけで済んだ。

 次の皮は、三日かけて選んだ。

 フリーランスのフォトグラファー。名前は工藤。髪は無造作にセットし、リネンのシャツは高価すぎないが仕立てが良い。首には使い込まれたライカのカメラ。ポイントは「使い込まれた」だ。新品では駄目だ。傷と年季が、この男が本物だという証拠になる。

 鏡の前で、工藤の顔を作る。

 佐藤は誠実な青年だった。工藤は違う。工藤は少し遠い目をしている。ここではない場所を、常に見ているような目だ。口数は少ない方がいい。沈黙を怖がらない男は、それだけで女の想像力を刺激する。

 俺は鏡に向かって、何も言わなかった。

 それが、工藤の自己紹介だった。

 ターゲットの恵里は、大手商社に勤める二十八歳だった。

 毎週火曜の夜、丸の内の高層ビルにあるバーに現れる。一人で来て、一人で飲んで、一人で帰る。SNSには更新が少ない。投稿される写真は、いつも食べ物か夜景で、人間が映っていない。

 俺は彼女より十五分早く店に入り、窓際のカウンターに座った。

 ライカを机に置き、PCを開く。

 彼女が来たのは二十時ちょうどだった。隙のないメイク、高いヒール。だがスツールに腰を下ろした瞬間、その背中から何かが抜けた。誰も見ていないと思ったのだろう。一瞬だけ、肩が落ちた。

 俺は画面から目を上げず、カメラのモニターを彼女の方に向けた。

 偶然のように見せた写真は、モロッコの青い街並みと、夜明けのサハラだった。

「……綺麗な色」

 独り言だった。俺に向けた言葉ではない。彼女は俺が聞いているとは思っていなかった。

「実物は、もっと残酷なほど綺麗ですよ」

 工藤の声は、少し乾いている。振り返らずに言う。

 彼女が息を飲んだのが、気配で分かった。

 工藤は愚痴を聞かない。

 不満を肯定しない。共感もしない。他の男が与えるものは、ここでは出さない。工藤が彼女に売るのは、一つだけだ。

「今度、アイスランドに一ヶ月ほど滞在します。個展用の撮影で。もし……今の生活を捨てられるなら、助手として連れていきたい」

 あり得ない話だ。だが深夜に近い時間と、二杯目のグラスと、工藤が纏う空気が、彼女の判断を溶かしていく。

 彼女はしばらく黙っていた。

 俺は急がなかった。

 沈黙を埋めようとする男は、信用されない。工藤は待てる男だ。どこか遠い場所を、ずっと見ていられる男だ。

「ねえ、工藤くん」

 彼女が言った。

「アイスランドって、寒い?」

 俺は初めて、彼女の方を見た。

 恵里は笑っていた。挑戦するような、あるいは、もう諦めたような、妙な笑い方だった。

 その笑い方を、俺はどこかで見たことがあった。

 一瞬だけ。

 それがどこだったか考えかけて、俺は止めた。

「寒いですよ。でも、そこにしかない光がある」

 彼女の指が、スマホの画面に伸びた。

 二百万。

 彼女が会社を辞めるために、三年かけて貯めた金だった。

 俺は彼女の頬に触れ、再会を約束してバーを出た。

 恵里が次に俺に電話するとき、この番号はもう、どこにも繋がらない。

 アパートに戻り、金を机に置いた。

 四百万。目標の半分だ。

 引き出しからアイロンを取り出し、電源を入れる。ランプが赤く灯る。温まるのを待つ間、窓の外を見た。曇っていた。

 一枚目に霧吹きをかけ、アイロンを押し当てる。

 ジュッ。

 また一枚。

 手を動かしながら、俺はさっきの恵里の顔を思い出そうとした。

 挑戦するような、諦めたような、あの笑い方。

 思い出せなかった。

 思い出す必要はない。

 二百枚を終えたとき、アイロンのランプがまだ赤かった。電源を落とし、冷めるのを待った。

 机の上の資料を引き寄せる。

 三枚目のメモ。職業、保育士。

 俺は資料を眺め、それからもう一度、窓の外を見た。

 曇った夜空は、何も映していなかった。

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