第1話
第1話 佐藤という皮、あるいは、熱すぎる鉄
名前を捨てるのは、爪を切るより簡単だ。
洗面台の鏡に、一人の男が映っている。
昨日まで、俺は「石田」だった。六十代の資産家に三百万を貢がせた、眼鏡をかけた投資家。だが、石田の保険証も、石田の眼鏡も、石田が孤独な老人に向けた穏やかな笑顔も、今はゴミ袋の中で無造作に重なっている。
俺は口角を三ミリ上げる。眉間の力を抜き、瞳に誠実さと、ほんの少しの不器用さを滲ませる。
「……初めまして、美咲さん。いえ、すみません。あまりに素敵な方だったので」
鏡の中の男が笑った。
今日から俺は、「佐藤」だ。
ターゲットの情報は、事前に三日かけて集めた。
看護師、二十六歳。夜勤明けは決まって駅前の喫茶店でアイスコーヒーを飲む。SNSの最終投稿は深夜二時。いいねの数は少なく、実家は遠い。交際歴は、直近三年で確認できるものなし。
病院の近く、朝の喫茶店。
美咲は窓際の席にいた。制服から私服に着替えたばかりで、髪を結ぶ時間も惜しかったのか、ポニーテールが少し崩れている。アイスコーヒーのグラスを両手で包むように持ち、窓の外を見ていた。見ているようで、何も見ていない目だった。
俺は彼女の二つ隣に座り、鞄からノートPCを出した。
接触まで、十一分。
「すみません、充電器のコンセント、そちら側にありますか」
他愛ない入口だ。だが彼女は少し驚いた顔をして、それから、ほっとしたように笑った。誰かに話しかけられることを、ずっと待っていたような笑い方だった。
「ありますよ。どうぞ」
そこからは早かった。
俺はIT企業を一人で回している、少し不器用な青年を演じた。自慢はしない。弱みを先に見せる。彼女が話すたびに、遮らず、最後まで聞く。そして、返す。
「美咲さんの仕事は、誰にでもできることじゃない。……本当に、尊敬します」
たった一言。
彼女が一番欲しがっていた酸素を、最適なタイミングで流し込む。
美咲の目が、わずかに潤んだ。八年間、夜勤と早朝を繰り返してきた女が、初対面の男の一言で決壊した。
俺はそれを、スキャンするように冷徹に見ていた。
接触から二十八分後、俺は「急な資金繰りのトラブル」を打ち明けた。使い古された話だが、タイミングと温度さえ正確なら、これで足りる。
「……佐藤さんなら、信じられます」
美咲が言った。
俺は「佐藤」の顔のまま、深く、深く頭を下げた。
アパートに戻ったのは、夜だった。
机の上に、新札の束を置く。引き出したばかりの二百万円。まだどこか、他人の生活の温度が残っているような手触りがした。
引き出しの奥から、古いアイロンを取り出す。
電源を入れると、ランプが赤く灯った。温まるまでの数分、俺はただ待つ。
一枚の千円札を手に取り、霧吹きで微かな湿り気を与える。そして、熱されたプレートを押し当てた。
ジュッ、と音がして、細い蒸気が立ち上る。
一枚。また一枚。
シワを伸ばすのではない。何かを、焼く。何を焼いているのかは、考えない。ただ熱を当て続ける。プレートの温度が高すぎると、紙が焦げる。だから加減が必要だ。それだけのことだ。
三時間かけて、二百枚を終えた。
俺はアイロンの電源を落とし、自分の手のひらを見た。熱が移って、少し赤くなっている。
病院の廊下は、夜でも白かった。
三〇二号室のドアを開けると、微かな消毒液の匂いがした。ベッドの上で、姉はいくつかのチューブに繋がれたまま、目を閉じていた。眠っているのか、眠れないのかは、俺には分からない。
俺は椅子を引いて、座った。
何も言わなかった。姉も何も言わなかった。
窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていった。
しばらくして、姉の指が動いた。シーツの上を、探るように。俺は自分の手を、そこに重ねた。
「……来てくれたの」
掠れた声だった。
「ああ」
「仕事、うまくいってる?」
「うまくいってる」
姉は少しだけ笑ったようだった。目は閉じたままで。
主治医が言った数字を、俺は頭の中で反芻した。次の治療には、まだ六百万が足りない。
だから、俺はまた「誰か」にならなければならない。
椅子から立ち上がり、姉の手をシーツの上に戻す。
ドアを閉める直前、俺は一度だけ振り返った。
ベッドの上の姉は、また静止画のように静かになっていた。
アパートに戻り、俺は机の前に座った。
次の皮の資料が、三枚のメモにまとめてある。ターゲットの職業、生活圏、孤独の種類。
俺はそれをしばらく眺めた。
それから、引き出しを開けた。
アイロンは、まだ少し、温かかった。




