第5話
最終話 本当の名前、あるいは、冷えた鉄
取調室での問答は、三日続いた。
担当の刑事は二人いた。一人はよく喋り、一人はほとんど喋らなかった。俺は喋る方の質問に、順番に答えた。佐藤、工藤、橋本、武田。名前を言うたびに、刑事はそれを書き留めた。余罪、という言葉を、何度か使った。
俺は否定しなかった。隠さなかった。
全部話した。
八百万は押収された。姉さんの治療費には、もう使えない。
それを聞いたとき、俺は自分が何を感じているか、少しの間、分からなかった。
それから分かった。
軽かった。
ただ、軽かった。
勾留が続く間、俺は自分の手をよく見た。
アイロンを持たない手は、これほど何もしないものかと思った。傷もなく、熱もなく、ただそこにある。鏡がなかったので、顔を確認する習慣も消えた。
誰の名前でも呼ばれなかった。
房の中で、俺はただ、名前のない男だった。
一ヶ月後、面会の呼び出しがあった。
面会室に入ると、アクリル板の向こうに姉さんがいた。
車椅子だった。以前より細くなっていた。それでも、俺の顔を見た瞬間、姉さんは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
しばらく、ただ向かい合っていた。
先に動いたのは姉さんだった。指先でアクリル板をなぞった。俺の手がある位置に合わせるように、ゆっくりと。
俺は板に手を当てた。
姉さんの指が、止まった。
「……ごめん。全部、なくなった」
俺が言うと、姉さんは首を振った。
それだけだった。首を振っただけで、何も言わなかった。
俺たちはまた、しばらく黙っていた。
どのくらい経ったか。
姉さんが、口を開いた。
「健一」
俺は顔を上げた。
板の向こうで、姉さんは俺を見ていた。泣いてはいなかった。泣きそうでもなかった。ただ、俺を見ていた。
「お帰り」
俺は何も言えなかった。
板に額を当てた。冷たかった。
それだけだった。姉さんも何も言わなかった。板の向こうで、俺の額があるあたりに、そっと手を当てていた。
少しして、姉さんが言った。
「テレビで見たよ」
俺は額を板につけたまま、何も言わなかった。
「あんた、ほんとに」
姉さんは少し間を置いた。
「日本で一番悪い奴だね」
俺は顔を上げなかった。
板は冷たいままだった。
姉さんの手が、板の向こうにあった。
面会の時間が終わった。
立ち上がる前に、俺は一度だけ姉さんの顔を見た。
姉さんは笑っていた。泣きながら、笑っていた。
俺には、その顔に返せるものが何もなかった。
だから、ただ頷いた。
房に戻り、俺はまた自分の手を見た。
何もない手だった。
アイロンの熱も、霧吹きの湿り気も、紙幣の感触も、何もない。
ただ、冷えた手が、そこにあった。
それで、よかった。




